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大悲山塩船観音寺|青梅市塩船にある真言宗醍醐派寺院

塩船観音寺の概要

真言宗醍醐派寺院の塩船観音寺は、大悲山と号します。塩船観音寺は、八百比丘尼が大化年間(645-650)に創始、天平年間(729-748)に僧行基が再興したと伝えられ、貞観年間(859-876)に天台宗の安然が比叡山から七社権現を勧請して、阿弥陀堂、薬師堂および十二僧坊を建立したといいます。武蔵七党の村山党の金子十郎家忠や三田氏から篤い崇敬を受け、慶安2年(1649)には寺領5石の御朱印状を拝領したといいます。関東八十八ヶ所霊場72番、奥多摩新四国霊場八十八ヶ所59番です。

塩船観音寺
塩船観音寺の概要
山号 大悲山
院号 -
寺号 観音寺
住所 青梅市塩船194
宗派 真言宗醍醐派
葬儀・墓地 -
備考 -



塩船観音寺の縁起

塩船観音寺は、八百比丘尼が大化年間(645-650)に創始、天平年間(729-748)に僧行基が再興したと伝えられ、貞観年間(859-876)に天台宗の安然が比叡山から七社権現を勧請して、阿弥陀堂、薬師堂および十二僧坊を建立したといいます。武蔵七党の村山党の金子十郎家忠や三田氏から篤い崇敬を受け、慶安2年(1649)には寺領5石の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による塩船観音寺の縁起

(鹽船村)観音堂
村の東にあり、七間に六間南向、二十級餘の石階を歴て其上にたてり、千手観音を安置す、立身の木像長五尺二寸、行基の作、左右に不動・毘沙門の兩像を列す、各長四尺さくしれず、外に二十五尊を安ず、各長三尺作知れず、剏立の初を詳にせず、観音堂領五石の御朱印を附せらる、縁日とて諸人参詣する日一年に六度あり、正月十六七の兩日、二月初午、七月十日、及び十六七の兩日なり。
彌陀堂
観音堂の前にあり、其間二十歩許、堂は三間四方、三尊彌陀木の坐像、長三尺五寸、観音勢至各長三尺、慶長十五年の棟札あり、此堂背の丘上に古碑あり、永仁四年丙申九月十四日としるせり、土人傳へて八百比丘尼の立しものなりと云、いかなる故にてかく云ことを詳にせず。
薬師堂
二間に三間東向、行基作の木像長五尺餘、立身。
仁王門
三間に二間餘巽向、大悲山の三字を扁す、舎利軒龍峯と云る者書せり、左輔右弼の兩像長八尺、運慶の作、壽永三年甲辰造立の棟札あれど、至て古びて文字辨すべからず、外に天文二年癸巳卯月再建の棟札あり、表背に文あり、今其要を摘んでしるせり、ことに字様分明ならざるものあるは、姑く其ままに存す、表面に大旦那三田嫡男平朝臣弾正忠政定幷綱定家門繁昌、杣保内萬民豊穣の文字見え、今政定等が子孫近村にある事を聞ず、背に僧俗の名を録して杉本坊覺満。圓林坊昭傳・神門坊顕祐・寶聚坊顯秀・禅林坊・北之坊・橋本坊什海。寶積坊良満・寶蔵坊顯運・梅本坊宗雅・財林坊永鎮・以上衆徒鎌倉大佛所弟子圓慶*顯祐・同宿豊後顯宗・因幡顯泉・肥前顯忠季坊・脇旦那興冨三郎・勧進之人數詠然然三郎三良四良太郎四五郎四郎三郎然次郎八郎四郎藤二郎三郎四郎三郎太郎彦七・渡邊殿・西大炊介殿・西三郎左門殿とあり、今その俗家の子孫を詳にせず、いはゆる當村古へ十二坊と傳るもの、此を徴とすべし、鹽林坊即ち今の鹽船寺、梅本坊は今小名に殘れる梅本坊なり、但ここに載する所十一坊にして、小名の打越坊を合せて十二坊とす、餘は已に小名の條にみゆ。
鐘樓。八尺四方、寛永十八巳年三月吉日、願主進藤總三郎と雕たる大鐘をかく、此人は南小曾木村の者也と。
什寶
大般若經殘缺二百餘巻
蔵めて観音堂内にあり、古より傳来にて、追々書足せし者なり、孰も古筆にて、巻末に記あり、今其一二をあぐ、應永六年七月十日、奉於黒谷郷大畠少庵而覺能僧書之、應安六年八月廿日執筆、學能、武州三田領杣保内鹽船村、千手堂之大般若經二百餘巻、近来紛失之所、鹽船寺智賢法印調之今全部刻二巻書寫寄進畢、武州秩父白鳥 上住、應安六年閏月十月二日於武州秩父郡大淵郷長楽寺寫之、應安六年霜月朔日観證坊良榮、永和三丁巳六月廿六日書寫畢、永和三縁七月十二日迂弘重、康歴元年十月廿二日方冊筆、大願主學能僧、壬子年於杉本修理申也、至徳二年乙丑秋之頃、終功了、乗門商深、寶徳元年己巳十二月二十三日、大蔵卿三十七歳などみえたり、此外永和永徳等の年月を記せるもあり、もとより全部の物にあらず、其うへ堂内湿地なれば大半朽徴に及ぶ。
七社権現社。
観音堂より西の方の山丘にあり、六尺餘に七尺餘の社なり、山王七社と號す、祭神詳ならず、或は是を観音の奥院と稱す、村内の鎮守。
御手洗池。堂背の山下の谷にあり、五歩許の小池なり。
別当杉本坊
鹽船寺より一町程東にあり、當山派の修験なり、開基の初を詳にせず、此寺寶の般若經の奥書に、壬子年於杉本修理申也と、この壬子應安五年なるべし、【回國雑記】にも杉本といふ山伏の所に過りしよりいへり、されどこの上文に、上野國を冠らすれば、全く此地のこととも定めがたし、又宗紙【東路土産】に此坊のことをのせて、霧はたたわけ入八重の外山哉、この家の後は甲斐の山、北は秩父などいふにつきて、誠に深山とはここをや申すべからん、此山ふかき心なるべし、同所に山寺あり、前は武蔵野なり、杉本坊といふ、霧を吹野風が落に朝くもり。(新編武蔵風土記稿より)

「青梅市史」による塩船観音寺の縁起

塩船観音寺 (大悲山)
塩船にあり、本尊は十一面千手観音像(像高一四〇センチ、寄木造り・都有形文化財)である。
大化年間(六四五-四九)若狭の八百比丘尼が関東遍歴の折、この地こそ諸天鎮護の地と一寸八分の千手観音を祀ったという。伝説によると、天平年間(七二九-四八)人魚の肉を知らずに食し不老の霊力を得てから八百歳の長寿を保った女性であるという。
天平年間(七二九~四八)に僧行基が荒廃していた堂字を再興し、ここの地形が船形に似ており、仏が衆生を済度する「弘誓の船」に擬して塩船と名付けたという。平安時代、貞観年間(八五九~七六)に延暦寺の安然和尚が来山し、観音堂を再興、さらに阿弥陀堂、薬師堂を建て、他に十二坊も整え、寺の護りとして七社権現を勧請して寺運隆盛ならしめた。十二坊とは杉本坊、円林坊、神門坊、宝聚坊、禅林坊、北之坊、橋本坊、宝積坊、宝蔵坊、梅本坊、財林坊、打越坊で、円林坊が今の「塩船寺」であり、杉本坊は現存し、他は民家となったり、小名として残っている。
平安末から鎌倉初期、武蔵七党の村山党の金子十郎家忠が当寺に関わっている。この家忠は十九歳で保元の乱に初陣、鎮西八郎も驚嘆する活躍をみせ、平治の乱には義平と共に待賢十七騎の一つとして奮戦、三浦衣笠城攻めでも敵将三浦義明も絶賛する武勇を示した人物である。家忠の子・金三九はわずか十四歳で亡くなり、追善供養のため建治二年(一二七六)、家忠は功徳天(都有形文化財)を作り、所持の仏舎利と金王丸の遺髪をその頭の中に納め祀った。
室町時代後期、当地の豪族三田氏が手厚く保護し、現在の堂塔の大半はこの時期のものである。平将門の後胤を称する氏宗・政定父子の時代(永正~天文<一五〇四~五四>)が三田氏全盛期で、青梅、奥多摩のいわゆる「杣の保」一円に勢力を張った。当山がその本城勝沼城の鬼門(北)に当った故、とくに崇敬されたという。永正六年(一五〇九)八月十一日には連歌師の柴屋軒宗長が氏宗に招かれ十五日余も勝沼城に逗留し、ここ杉本坊で歌会を催し、「露をふく野風が花に朝ぐもり」「霧はただわけ入る八重の外山かな」など詠んでいることが『東路乃津登』に記されている。本尊両側の木造二十八部衆(都有形文化財)のうち像高最大は功徳天で一〇二センチ、最小は雷電王八五センチで、ほとんど鎌倉期の作とみられる。金子十部が早世した金王丸の冥福を祈って作った功徳天の胎内に、二百三十年を経て仏師弘円をして修理させた三田氏宗は「そのかみのまことは今もしられぬるくちぬかうちにかほる御仏」としるした木札を残した。こうして二十八部衆がそろって残存する例は全国でも数少なく、貴重というべきである。天文二年(一五三三)政定、綱定により本堂・仁王が修理され、慶長十五年(一六一〇)には阿弥陀堂が修理され、慶安二年には五石の朱印状が付せられた。
昭和二十一年、本堂(観音堂)、仁王門、阿弥陀堂が国宝指定、同二十五年、文化財保護法制定で重要文化財に指定された。本堂、仁王門は昭和二十九年、阿弥陀堂は同三十八年に解体復元工事完了。仁王門は寿永三年(二八四)の造立と伝え、また金剛力士二体は天文二年(一五三三)三田氏が修理したことを記した棟札とともに都有形文化財、境内の大杉も都天然記念物に指定されている。阿弥陀堂背後の青石塔婆(市有形文化財)は高さ二メートル、永仁四年(一二九六)の造立で市内最大の優品である。寺宝、大般若経二百余巻は応安六年(一三七三)のものを最古として、奥書に貴重な史料を含み、一括して市有形文化財となっている。また鐘楼には寛永十八年(一六四一)羽村市五の神の桜沢市兵衛鋳造の銅鏡(市有形文化財)がかけられている(「青梅市史」より)

境内掲示による塩船観音寺の縁起

別格本山塩船観音寺
当山は真言宗醍醐派の別格本山で大悲山塩船観音寺と称す。
当山開創は大化年間(約千三百年前)若狭の八百比丘尼この地に来たり紫金の千手観音像を奉安したのが始めと云われ、其の後天平年間(約千二百年前)僧行基が堂宇を再興しこの地を塩船と名づけた。其の後貞観年間(西暦八五九~八七七年)に比叡山の僧安然が夢告により来山し諸堂と十二の坊舎を建立し盛大を極めたと伝えられる。
本堂は木造寄棟造り茅葺で内陣中央の本尊を安置する。厨子は極めて精巧な作りである。
本尊千手千眼観自在墓猿は鎌倉時代の造立で慈悲あふれる温容の秘仏(御開闢年四回)である。本尊の御名は衆生の求願を開くのではなくその声を自在に観ることが出来る。又一度に千の願いを観て一度に千の手を以て願いを叶えること故に千手千眼観自在菩薩と云う。
本尊の眷属である二十八部衆は現存数ヶ寺で全国二番目の歴史を持つ貴重な尊像である。
本尊・二十八部衆 鎌倉時代 都指定有形文化財
本堂・厨子 室町時代 国指定重要文化財(境内掲示より)


塩船観音寺所蔵の文化財

  • 本堂(観音堂)(国指定重要文化財)
  • 仁王門(国指定重要文化財)
  • 阿弥陀堂(国指定重要文化財)
  • 本堂本尊・二十八部衆(東京都指定有形文化財)
  • 金剛力士二体(東京都指定有形文化財)
  • 大般若経二百余巻(東京都指定有形文化財)
  • 鐘楼の銅鏡(青梅市指定有形文化財)
  • 塩船観音寺の大スギ(東京都指定天然記念物)
  • 銅鐘(青梅市指定有形文化財)
  • 薬師堂(青梅市指定有形文化財)

銅鐘

この銅鐘は、銘文にあるように寛永十八年(一六四一)三月、住職法印智賢の本願により、杉本坊権大僧都良忍の菩提を弔うため、市内南小曾木の近藤惣太郎が施主となり大工(鋳物師)・櫻澤市兵衛尉盛次が鋳た鐘である。
この櫻澤市兵衛尉盛次は、現羽村市五ノ神に居住していた中世からの鋳工集団の一派の棟梁であり、多摩周辺には彼らの鑄造になる銅鐘がいくつか現存している。
今井の薬王寺に伝わる市内裏宿住の嶋村照恩製作の鐘とともに、製作者が明らかで、青梅近在にて鋳造されたことなど、その経緯が解る銅鐘としても貴重である。(青梅市教育委員会掲示より)

薬師堂

塩船観音寺の開基および再興は、八百比丘尼、行基との伝説があるが、貞観年間(八五九~八七六)に天台宗の安然が比叡山から七社権現を勧請し、阿弥陀堂、薬師堂および十二僧坊を建立したという。
この薬師堂は、桁行三間、梁行三間、木造、寄棟造、茅葺、一重の小仏堂である。建築年代は不明であるが、壁が竪羽目板河辺目板打であること、天井がなく屋根下地が直接見えることなど素朴で簡素な赴きがある。
堂内には藤原仏と推定される薬師如来像一軀を安置している。
昭和四十六年に解体復元工事を行い、現在に至っている。(青梅市教育委員会掲示より)

塩船観音寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「青梅市史」