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仙桃山宗建寺|青梅市千ヶ瀬町にある臨済宗建長寺派寺院

宗建寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の宗建寺は、仙桃山と号します。宗建寺は、一蓮社尭誉宗公上人(宝徳2年1450年寂)が浄土宗寺院として開山、二世覚林が臨済宗に改めたといいます。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領1石7斗の御朱印状を拝領したといいます。青梅七福神の毘沙門天です。

宗建寺
宗建寺の概要
山号 仙桃山
院号 -
寺号 宗建寺
住所 青梅市千ヶ瀬町6-734
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



宗建寺の縁起

宗建寺は、一蓮社尭誉宗公上人(宝徳2年1450年寂)が浄土宗寺院として開山、二世覚林が臨済宗に改めたといいます。慶安2年(1649)には江戸幕府より寺領1石7斗の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による宗建寺の縁起

(千ヶ瀬村)宗建寺
境内二百坪許、仙桃山と號す、臨済派禅宗、當郡長淵村玉泉寺の末、御朱印一石七斗の寺領を附せらる、本堂七間に舊間、本尊毘沙門、木像長一尺餘、開山一翁祖蓮、寶徳二年三月十一日寂。
鐘楼。九尺四方、近来の鑄造なり。
辨天祠。三間四方、境内の鎮守なり。(新編武蔵風土記稿より)

「青梅市史」による宗建寺の縁起

宗建寺(仙桃山)
千ヶ瀬(現・千ヶ瀬六丁目)にあり、本尊は毘沙門天である。開山一蓮社尭誉宗公上人は、宝徳二年(一四五〇)三月示寂と伝える。はじめ浄土宗であり、二世覚林の代に改宗し、玉泉寺末となった。はじめ千島山、のち仙洞山、寛政年間仙桃山と改めたという。慶安二年(一六四九)徳川氏より一石七斗の朱印状を寄せられ、明和年間(一七六四~七一)大祐和尚により現在の堂字が再建された。寺宝として中峰国師の頂像を伝える。境内に青梅の生んだ文人根岸掠字の墓があり、「暁の波に別るる千鳥かな」と辞世が刻まれ、掠宇没後は青梅の文芸の中心人物となった従弟根岸典則の墓(都旧跡)もある。他に俊足の賊・裏宿七兵衛の首塚などもある。本尊昆沙門天は七福神詣での一つでもある。(「青梅市史」より)


宗建寺所蔵の文化財

  • 根岸典則墓(東京都指定旧跡)

根岸典則墓

典則は江戸時代後半の文化・文政期の青梅における文芸創作活動の市道的役割をはたした人物で、国学者で詩人。宝暦八年(一七五八)八月青梅縞仲買商で町年寄をつとめていた青梅本町の根岸嘉右衛門(洗雪)の子として生まれた。幼妙文太郎。通称太兵衛、[山解]谷、鳳質とも号した。俳諧の根岸凉宇は叔父にあたる。和歌を日野大納言質枝に、儒学を折衷学派の井上金峨に学んだ。また、禅を鎌倉の峨山和尚について修めるなど学問領域は多方面に及んだ。晩年は家業を養子の喜則に譲り、著作や文芸指導に専念した。その生涯を通じて多くの文人と交流し、門下を育てている。
天保二年(一八三一)に没した。
著書に「渓雲軒和歌集」「老懐百首」「[山解]谷詩集」「扶桑蒙求」(東京都教育委員会掲示より)

宗建寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「青梅市史」