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国分寺|国分寺市西元町にある真言宗豊山派寺院

国分寺の概要

真言宗豊山派寺院の国分寺は、醫王山西勝院と号します。国分寺は、奈良時代に聖武天皇命じて建立させた寺院で、金堂をはじめ諸伽藍を備えていたといいます。鎌倉幕府滅亡の際の戦火により焼失、薬師堂は新田氏により再建、江戸時代には寺領9石8斗の御朱印状を拝領していたといいます。関東九十一薬師霊場初番、多摩八十八ヶ所霊場29番です。

国分寺
国分寺の概要
山号 醫王山
院号 西勝院
寺号 国分寺
本尊 大日如来像
宗派 真言宗豊山派
住所 国分寺市西元町1-13-16
葬儀・墓地 -
備考 -



国分寺の縁起

国分寺は、奈良時代に聖武天皇命じて建立させた寺院で、金堂をはじめ諸伽藍を備えていたといいます。鎌倉幕府滅亡の際の戦火により焼失、薬師堂は新田氏により再建、江戸時代には寺領9石8斗の御朱印状を拝領していたといいます。

新編武蔵風土記稿による国分寺の縁起

(国分寺村)国分寺
境内、一段六畝、村の東方にあり、醫王山西勝院と號す、新義真言宗府中妙光院末、御朱印薬師領九石八斗九升八合を附せらる、客殿八間半に六間半、本尊薬師木の坐像、長三尺五寸、殿内に金光明四天王護國之寺と題せる領あり、當院は人王四十五代聖武帝の朝釋教を崇信ありて、毎國兩寺を置れ、水早の患を禱禳し、災兵を止め疾病を遠ざけ、國家の福祥を祈らしめしとなん、歴朝相承て制をあらためず、その事國史に歴然たり、天下諸國に各七重塔一區をつくらしめ、并せて金光明最勝王経妙法蓮華経各十部を寫し、帝又別に金字の光明最勝王経を寫したまふ、毎塔各一部を置しめしとなり、國司等に命じて務めて厳師を加ふ、又毎國に僧寺施封五十戸、水田十町、尼寺二十丁、僧寺は必二十僧を置、其寺名を金光明四天王護國之寺となし、尼寺には十尼を置、その寺を名づけて法華滅罪之寺となす、僧尼闕あれば即ち補す、僧尼毎月八日必最勝王経を轉讀し、月半毎に誦戒、毎月六賽日を立、公私魚獲することを得ず、國司等恒に検校を加ふべしとの詔勅あり、これより先年穀豊ならず、疫病頗に至るが爲めに、天下の神宮を増飾し、普く天下に令して丈六の釋迦像を鋳造、并せて大般若経各一部を寫せしむ、この春に至て風雨序に順ひ、秋稼豊饒の徴あり、靈睨答あるが如しとて、いよいよ恭敬を盡され、國家の爲にこの擧あり、是天下國分寺を置れし櫔與なり、後又承和元年四月國内の行者を搾て、國分僧寺に於て、三日金剛般若経及薬師悔通を修せしむ、同四年二月普く五畿内七道諸國をして、僧寺に於て最勝王経を講し、尼寺滅罪の場法華妙典を説ことなし、修善聞如せんことをおそる、宜く五畿内七道諸國をして、僧寺に於て最勝王経を講し、尼寺に於ては法華経を講すべしと勅せらる、同く十二年武蔵國よりまうす、國分寺七層塔、承和二年神火に焼れていまだ構立せずと、この時に於て男衾郡大領外従八位上壬生吉志福正聖朝の爲に、彼塔をつくらんと謂あり、仍てこれを許さる、貞観十五年十二月陸奥國まふす、武蔵國の例に準じて五大菩薩を造りて國分寺に安置せんと、又延喜簡主税に武蔵國國分寺料五萬東と見えたり、是等に豫れば、當府の國分寺太古経營の莫大想ひはかるべし、其後武将執権の世に至ても、なを諸國の国分寺に於て、最勝王経を轉讀すべきの宣勅あり、寛喜三年民部大夫入道行然、その事を奉行せしことなどみえたり、それより星霜を経て王化陵夷せしによりて、此寺も亦従て衰微に及べり、ことさら元弘よりこのかた、此邊防戦の地となりて、しばしば兵焚に罹りしよしなど口碑にも傳ふ、寳徳元年上杉安房守憲實子息三人伊豆國を落行、出家して行方しれずなりし時、永壽王殿は關東へ下り、武州府中中村岡に逗留ありて國分寺にありしなど、是又當時の風情をはかり知るべし、今なを一宇の寺院たりといへども、古の堂塔伽藍のおもかげは、遺礎となりて僅に阡陌のあいだにのこれり。
薬師堂
村の西丘岡の上にあり、往古の堂迹なりといふ、平地より先づ二十級の石階を登り、次に三十級、又十五級を経て堂前に至る、堂は七間半四方、薬師像は木の坐像、長六尺二寸、行基の彫刻せし所なりと云、又十二神の木像及日光月光の二像あり、【私案抄】を閲するに、日光月光の二像は應永七月僧祖明が勧進して造立せる像にて、十二神はふるき像なるを、これも祖明が装飾せしことしらる、されば今日光月光も行基の僧が傳ふるは、その誤明けし、祖明が状の案に云、
(文面略)
堂の後背平林中に往古の礎石あり、四歩毎に一つ、凡そ七石あり、土人の考に遺礎の様子を以て按すれば、往古の堂は大抵二十八間四方もありしにやといへり、又これより南の圃中に小篠の生たる丘岡あり、その地は後代の堂跡なりといへり、ここにも遺礎残れり、今の堂は寳暦中移せしものなりとぞ、此邊すべて田圃の間古瓦夥しくあり、皆布目あり、好事者或は硯の材にあつ、その内諸岡郷の字、或は豊の字などみゆるもあり、そのかみ造營の時命ありて、近郷より寄附せしものならんといふ、土俗この瓦を携へ去もの家に必災ありと云ならはせり、諸人もこれを怯れて持去ものなし、故に千歳の後幸にこの地にあり、寳暦中この丘庭に國分寺の由来を記せし碑をたてり、文は攝津の服雄撰述、書筆せし者は阿保壽なりといふ。
仁王門
三間半に二間餘、輔弼の像長七尺餘、此門近世までの薬師堂なりしを、再興の時きりちちちめて仁王門になせしと云。
寳塔蹟
國分寺より一町餘、南の陸田中に平石一枚あり、大さ大抵四尺に五六尺許、中心圓穴あり、径一尺、深さ四尺餘、是古へ七層塔の礎石にて、圓穴は心柱の穴なるべしといふ、然れどもこの所もとよりの舊跡か、或は外より掘出せしをここに移し置しものか、今つまびらかならず。(新編武蔵風土記稿より)

「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」による国分寺の縁起

医王山最勝院国分寺は国分寺崖線に沿って西元町に現在の寺地を構えています。崖線際に本堂、前面に楼門を置きます。そしてその西方崖線上に薬師堂、その前面の崖線中腹に仁王門を構えます。
国分寺は奈良時代、武蔵国分寺以来の来歴を持つもので、当初の堂宇は金堂、講堂、七重塔などの伽藍を誇りましたが、元弘3(1333)年、元弘の兵火に遭い焼失しました。現在の寺は石村喜英の研究によると、この後、新田氏からの寄進で旧金堂付近に薬師堂が建立されましたが、薬師堂管理のため、江戸時代初期、やや離れた西勝院を現在地に移したとされます(『武蔵国分寺の研究』)。近世の国分寺は貞享4(1687)年以後出開帳が実施され、世人に広く知られており、『新編武蔵風土記稿』では旧金堂の礎石、古瓦なども併せて紹介されています。(「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」より)


国分寺所蔵の文化財

  • 国分寺楼門(国分寺市指定重宝)
  • 万葉植物園(国分寺市指定天然記念物)
  • 木造薬師如来坐像(国指定重要文化財)
  • 国分寺薬師堂(国分寺市指定重宝)
  • 国分寺仁王門(国分寺市指定重宝)
  • 武蔵国分寺跡(国指定史跡)

木造薬師如来坐像及び国分寺薬師堂

薬師堂に安置されている木造薬師如来坐像は、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期の製作と考えられ、作者は不明です。
寄木造りの漆箔仕上げで、像高は約一九一、五センチメートルあります。蓮華座に坐し、印相は右手が施無畏印、左手に薬壷を持っています。台座および光背は後代の補作と思われます。
薬師如来は、日光・月光の両菩薩を脇侍とし、眷属として十二神将を従えていますが、当国分寺の十二神将は、頭部の墨書から元禄二年(一六八九)の作であることがわかっています。
薬師堂は、建武二年(一三三五)に新田義貞の寄進により国分僧寺の金堂跡付近に建立されたと伝えられているもので、その後、享保元年(一七一六)に修復されましたが、宝暦年間(一七五一〜一七六三)に現在地で再建されたものです。
堂内正面の長押には、明和元年(一七六四)奉献された深見玄岱の筆になる「金光明四天王護国之寺」の寺額がかけられていますが、この寺額は東大寺西大寺の勅額を模したものです。(国分寺市教育委員会掲示より)

国分寺仁王門

この門は、宝暦年間(一七五一〜一七六三)に建立された入母屋造の八脚門で、間口が九・〇メートル、奥行が三・六メートルあります。
使用されている建築材は、『新編武蔵風土記稿』の仁王門の条に「此の門近世までの薬師堂なりしを再興の時きりちぢめて仁王門になせり」とあるように、建武二年(一三三五)に建立された旧薬師堂(江戸時代初め頃の「国分寺村古絵図」によると僧寺の金堂跡付近にあった)に使用されていたものを再利用したと伝えられていますが、杉材の柱などに残る組立て用の穴の彫り方からこのことがうかがえます。
この門の左右には阿(口を開いている)・吽(口を閉じている)二体の仁王像(高さ二・五メートル)が安置されていますが、享保三年(一七一八)に造立されたもので、作者は不明です。(国分寺市教育委員会掲示より)

武蔵国分寺跡

天平十三年(七四一)の聖武天皇の命により、鎮護国家を祈願して創建された武蔵国分寺は、昭和三十一年以来の発掘調査によって東西七四〇メートル、南北(中軸線上)五五〇メートルの寺地と、寺地中央北寄りの僧寺寺域(三六〇〜四二〇メートル四方)および寺地南西隅の尼寺寺域(推定一六〇メートル四方)が明らかになり、諸国国分寺中有数の規模であることが判りました。さらに、この中で寺地・寺域は数回の変遷があることが確認されています。
また、僧寺では諸国国分寺中最大規模の金堂をはじめ講堂・七重塔・鐘楼・東僧坊・中門・塀・北方建物・尼寺では金堂(推定)・尼坊などが調査されています。
武蔵国の文化遺産の中心施設であった国分寺の終末は不明ですが、元弘三年(一三三三)の分倍河原の合戦で焼失したと伝えられています。
史跡指定地域約十万平方メートルは、現在、史跡公園の整備に向けて土地の公有化を進めています。(国分寺市教育委員会掲示より)

国分寺楼門

建物は間口三間(約6.2メートル)奥行二間(約3.7メートル)の楼門造り、板金葺で、江戸時代の建築様式をよくとどめています。
この門は、米津出羽守田盛(通称内蔵助)の元菩提寺として建立された米津寺の楼門を明治二十八年に移築したものです。国分寺境内の諸建築物とともに、国分寺の変遷を知るうえで重要な建物です。(国分寺市教育委員会掲示より)

国分寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」