戸倉神社|国分寺市戸倉の神社

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戸倉神社|享保年間にあきる野市戸倉の三島神社の分霊を勧請

戸倉神社の概要

戸倉神社は、国分寺市戸倉にある神社です。戸倉神社は、享保年間にあきる野市戸倉の三島神社の分霊を勧請して、山王大権現と称して戸倉新田の鎮守としたといいます。明治2年村社に列格、戸倉神社と改称したといいます。

戸倉神社
戸倉神社の概要
社号 戸倉神社
祭神 八千矛神
相殿 -
境内社 稲荷神社
住所 国分寺市戸倉4-34-7
祭日 -
備考 戸倉新田鎮守



戸倉神社の由緒

戸倉神社は、享保年間にあきる野市戸倉の三島神社の分霊を勧請して、山王大権現と称して戸倉新田の鎮守としたといいます。明治2年村社に列格、戸倉神社と改称したといいます。

新編武蔵風土記稿による戸倉神社の由緒

(戸倉新田)山王社
除地五畝、街道より一町餘、南の方にあり、上屋二間に三間、内に小社を置、神體白幣なり、華表兩柱の間九尺餘南向なり、村内鎮守、例祭六月十五日、満福寺の持なり。
稲荷社。本社の前にあり、小祠。(新編武蔵風土記稿より)

北多摩神社誌による戸倉神社の由緒

享保年間に東京都西多摩郡五日市町戸倉三島神社より分社、山王大権現として鎮座、明治二年村社に昇格、戸倉神社となった。(北多摩神社誌より)

「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」による戸倉神社の由緒

国分寺市のほぼ中央部に位置する戸倉は、江戸時代の中期、戸倉村(現あきる野市)出身の郷左衛門によって戸倉新田として開かれました。一般に江戸時代における武蔵野の新田開発は、開発願を提出後に開発地の割り渡しが幕府からあり村として成立しましたが、戸倉新田は郷左衛門が番場宿、本町(いずれも現府中市)より開発前の芝地を買い入れ、享保14(1729)年以後出百姓へ分譲したことに始まります。同年中に開発地を購入した者は9人あり、出身地は過半の5人が檜原村(現檜原村)の者でした。そして宝暦10(1760)年までに42軒の移住者があり、半数の21軒がやはり檜原村の出身者でした(『国分寺市史中巻』)。このように戸倉新田は檜原村出身者が多数を占めました。ところで新田村では出身者の親村の神社を分社することが多く見られますが、元文4(1739)年の検地では全体の22パーセントを名主郷左衛門が所有し、村内では名実共に郷左衛門が中心的な存在であったためでしょうか、同新田では檜原村ではなく郷左衛門の出である戸倉村の清水山王宮を、享保(1716~35)年間に山王大権現として分社しました(「神社明細帳」東京都公文書館所蔵)。なお、遷宮の年代を示す元史料は存在せず、今のところ元文元(1736)年の検地で、墓所・氏神社地1反5畝歩の存在が判明するのを確認できるに留まります。以後、戸倉新田では延享3(1746)年に檜原村から満福寺を神社の東隣地に引寺し別当となりました。維新後では明治2(1869)年に山王大権現を戸倉神社と改称して、明治8(1875)年、同社は村社とされました。
戸倉神社は南西から北東に広がる戸倉の地のほぼ中央に位置し、社地は南西から北東に通じる道筋の南東側に敷地を有し、社殿群は道路に直行するように北西に面しますが、以下では煩雑を避けるために、これを北面として説明して行きます。さて、道路に面し鳥居を2基構え、ここから参道が南側に伸び、西傍らに社務所、突き当たりに拝殿、本殿及び本殿覆殿等が北面して建ち、境内地南東隅には、末社稲荷神社が祀られます。(「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」より)

境内掲示による戸倉神社の由緒

享保十四年戸倉新田が開発されたとき、此の里の鎮守として、現在の西多摩郡五日市町戸倉の三島神社を勧請、山王大権現として鎮座、明治二年に戸倉神社と改称した。(境内掲示より)


戸倉神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 北多摩神社誌(北多摩神道青年会むらさき会)
  • 「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」