延命寺|多摩市関戸にある時宗寺院

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關門山延命寺|鎌倉幕府軍・倒幕新田義貞軍の関戸古戦場跡

延命寺の概要

時宗寺院の延命寺は、關門山地蔵院と号します。延命寺の創建年代等は不詳ながら、当地にあった庵室を清浄光寺住持普国の隠居寺と定めて一寺としたといいます。当地は、鎌倉幕府軍と倒幕新田義貞軍とが戦った関戸古戦場跡地だといいます。

延命寺
延命寺の概要
山号 關門山
院号 地蔵院
寺号 延命寺
宗派 時宗
住所 多摩市関戸5-24-3
葬儀・墓地 -
備考 -



延命寺の縁起

延命寺の創建年代等は不詳ながら、当地にあった庵室を清浄光寺住持普国の隠居寺と定めて一寺としたといいます。

新編武蔵風土記稿による延命寺の縁起

(關戸村)延命寺
境内年貢地、村の東の方本村と云所にある、關門山地蔵院と號す、時宗にて、相模國藤澤清浄寺の末寺なり、相傳ふ當寺は昔纔の菴室なりしを、本山の住持普國と云ひし僧の退隠の地に定めしより、延命寺の號をはじめて一の寺院となれりと、普國はゆへありて遂に此へは隠居せざりしとなり、又普國は何の年寂せしと云をも傳へざるにより、起立の年歴は知るべからず、客殿七間に五間半、本尊彌陀の立像長三尺なると、地蔵の立像長三尺なるとを安置す。
墳墓古墳
村の東の方延命寺の前にあり、周廻一丈許にして、塚上に楢の大樹一本を栽えたり、相傳ふ、分倍河原合戦の時、戦死したる横溝八郎を葬せし墳なりと、その正しきことを知らず、按に太平記分倍河原合戦の條に、横溝五郎入道等を相模入道の弟、四郎左近大夫入道慧性にさしそへて、十萬餘騎を下されしと見ゆ、もし八郎は此五郎入道が氏族にして、その數に入し人にや、今樹下に元享四年二月日と鐫たる青石の斷碑一基を建たれど、この碑は後に他所より持来りたるものなるべし、もし然らずといはば、分倍河原にて戦死のものの墳といふことは、傳へのあやまりならん。(新編武蔵風土記稿より)

「多摩市史」による延命寺の縁起

【延命寺】山号は関門山、院号は地蔵院。関戸村の東の方本村にあり、藤沢清浄光寺の直末。当寺は本山住持普国が隠居寺に定めたといわれ、第四世春登は文化十四年(一八一七)に語学書「万葉用字格」を著わす一方、地域文化の興隆に影響を及ぼした。(「多摩市史」より)


延命寺所蔵の文化財

  • 関戸古戦場跡

関戸古戦場跡

最初の武士政権である鎌倉幕府は、元弘三(一三三三)年新田義貞によって滅ぼされた。新田軍は鎌倉に向かう途中、交通の要所である分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、五月十六日此の地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、六日後に首都鎌倉を征圧した。(多摩市教育委員会掲示より)

延命寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「多摩市史」