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猫の足あと

田村山安養寺|日野市万願寺にある真言宗智山派寺院

安養寺の概要

真言宗智山派寺院の安養寺は、田村山極楽院と号します。安養寺の創建年代は不詳ですが、当所は日奉氏の居館跡だともいい、また山号から西党日奉氏の一族田村安栖が開基したのではないかともいいます。法印慶深(正保2年1645年寂)が中興、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領13石の御朱印状を拝領したといいます。関東八十八ヶ所霊場68番、多摩八十八ヶ所霊場85番、日野七福神の毘沙門天です。また、当寺本堂及び木造毘沙門天立像は日野市有形文化財に指定されています。

安養寺
安養寺の概要
山号 田村山
院号 極楽院
寺号 安養寺
住所 日野市万願寺4-20-8
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



安養寺の縁起

安養寺の創建年代は不詳ですが、当所は日奉氏の居館跡だともいい、また山号から西党日奉氏の一族田村安栖が開基したのではないかともいいます。法印慶深(正保2年1645年寂)が中興、慶安元年(1648)には江戸幕府より寺領13石の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による安養寺の縁起

(下田村)安養寺
當寺領の内にあり、田村山と號す、新義真言宗、高幡村金剛寺の末寺なり、年月詳ならず、御朱印を附せられ、寺領十三石をたまへり、當寺の山號によれば、かの田村安栖が開基せしにや、開山及び起立の年歴を傳へず、中興の開山法印慶深正保二年七月廿二日示寂せり、本尊弥陀の木像、長三尺許、恵心僧都の作なりと云、客殿九間に七間東向なり
八幡社。門の前にあり、小祠にて、二間半四方の覆屋あり、村の鎮守にして、例祭は九月十五日なり。
薬師堂。二間四方、門に入て左の方にあり、長三尺許なる薬師の坐像を安す、これ行基菩薩の作なりといへり。
立碑五基。文化十二年境内薮の中より掘出せりと云。何れも文字浸蝕してよみがたし、ただ正中嘉暦應永の年號はづかによむべし、是餘、古銭数十枚を掘出せりと云。(新編武蔵風土記稿より)

日野市史による安養寺の縁起

安養寺 下田三一
田村山極楽院と号し真言宗智山派高幡金剛寺末であった。本尊は阿弥陀如来、開山・開基は明らかでないがこのあたりに居館を構えた西党由井宗弘の直系田村氏の開基によるものではないかといわれている。その後永く興廃消長を経たが、正保二年(一六四五)に入寂した法印慶深がこれを中興し、慶安元年(一六四八)幕府から十三石の寺額を付された。古く寺城は東方の八幡神社境に及んでいたが、現在は八百七十九坪である。
本堂は桁行九間 梁間五間 寄棟造 向拝一間 背面内陣一間突出し付き、建築年月は不明であるが、その構造様式から、江戸中期または、それよりやや古い時期の建立と推測されている。別棟の庫裡も本堂と同時期の建立と考えられている。本堂は大正十一年(一九二二)十八世海印代に大修理を施し、従来の萱葺きを亜鉛板葺きに改めた。この本堂も昭和五十七年四月修復工事に着手し、同五十八年六月末完成した。
本堂には、本尊阿弥陀如来、脇侍観音・勢至の三尊像を安置する。本尊阿弥陀如来坐像は、高さ約三尺の寄木造漆塗で、金箔押しの痕跡が見られる。様相端麗、平安時代の様式になるものと認められ、東京都の重宝に指定されている。脇侍の両菩薩は二尺五寸ほどの木彫立像で、室町末期の力作とされる。ほかに鎌倉期と推定される阿弥陀如来の坐像(高さ八寸)がある。
また木造毘沙門天立像は市重宝で、高さ約四尺、動的姿態を示しながら腰に安定感があり、脚もとに力がこもり、威厳を具えたなかにも颯爽とした趣きがある。
邪鬼は別木で造り毘沙門天の足裏を枘造りにして、枘孔に差しこんでいる。
ほかに南北朝期の作と見られる十一面観世音(五寸の木彫立像)も安置する。
山門は四脚、間口一間半、本堂正面にあり、建築年代は不明である。
薬師堂については、『新編武蔵風土記稿』に「薬師堂二間四方、門二人テ左ノ方ニアリ、長三尺許ナル薬師ノ坐像ヲ安久、コレ行基菩薩ノ作トイヘリ、」とあるが、堂は昭和四十六年四月に廃され、薬師像は現在本堂に移されている。
墓地内には、高さ二尺二寸ぽかりの白丁の酒徳利を模した変わった墓石がある。万願寺村の北にあったと伝える正楽院の堂守「了全法師」の墓で、「かくすればかくなるものと知りながら ついにわが身は徳利となる」の辞世を彫り、自ら建立したものである。
本寺はまた、多摩四国八十八か所霊場の第八十五番の札所となっている。(日野市史より)


安養寺所蔵の文化財

  • 安養寺本堂
  • 木造毘沙門天立像

安養寺本堂

安養寺は、その創立は明らかではないが、中世のこの地方の豪族、西党日奉氏の一族田村氏の居館跡といわれる。
現本堂は再建されたもので、昭和57・58年(1982・83年)の修理時の調査等から、その建立は18世紀初頭を下らないものと見られる。建物は方丈形式で、元は茅葺であったが、大正7年(1918年)の修理時に向拝を取付け鉄板葺とし、上記昭和の修理時に屋根構造を復し銅板葺となった。庫裡も本堂と同時期の建立と見られ、江戸時代に造営された方丈形式の、本堂と屋根が現存する好例である。(日野市教育委員会掲示より)

木造毘沙門天立像

毘沙門天は仏法を守護する四天王のひとつで多聞天とも呼ばれる。この像は鎌倉時代初期作と推定される。
右手で戈をとり、左手に宝塔を捧げ、腰を大きくひねって足下に邪鬼を踏む姿は、力量感あふれる像である。本像は桧材の寄木造り、体軀は前後を矧ぎ合わせている。頭部と両腕は肩から先が近年の修理による後補である。
均斉のとれた体軀は写実に富み、細部まで神経の行きとどいたつくり、とくに胸甲から腹部の獅噛みの表現は見事である。やや誇張された腰の動きではあるが、藤原時代の優美な姿態のなかに写実的な力強さも加わり、関東地方でも傑出した仏像のひとつである。邪鬼も左腕等の一部をのぞいて当初のものと思われる。(日野市教育委員会掲示より)

安養寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 日野市史