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如意山宝泉寺|日野市日野本町にある臨済宗建長寺派寺院

宝泉寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の宝泉寺は、如意山と号します。宝泉寺の創建年代は不詳ながら、元徳年間(1329-1332)の開創と言われ、鎌倉建長寺五十九世曇芳周應(応永8年1401年寂)が開山、江戸期には寺領7石の御朱印状を拝領したといいます。

宝泉寺
宝泉寺の概要
山号 如意山
院号 -
寺号 宝泉寺
住所 日野市日野本町3-6-9
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 宝泉寺会館
備考 -



宝泉寺の縁起

宝泉寺の創建年代は不詳ながら、元徳年間(1329-1332)の開創と言われ、鎌倉建長寺五十九世曇芳周應(応永8年1401年寂)が開山、江戸期には寺領7石の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による宝泉寺の縁起

(日野本郷)寳泉寺
小名坂下にあり、臨済宗、鎌倉建長寺末、如意山と號す、寺領七石を附けらる、開山曇芳周應應永八年示寂す、客殿九間に八間、本尊釈迦を安す、脇士に文殊普賢の木像を安ず。
鐘楼。六尺四方、鐘は延享二年の鋳造にて、圓径二尺六寸、銘文は考證に由なければ略せり。
八幡祠。境内の鎮守として祭れり、小祠。(新編武蔵風土記稿より)

日野市史による宝泉寺の縁起

如意山と号し、臨済宗建長寺派の禅剃、本尊は釈迦牟尼仏である。当寺は元徳年間(一三二九~一三三二)の開創といわれ、開山は建長寺五十九世曇芳周応(応永八年[一四〇一]九月七日寂 歳九十九)である。
はじめ字姥久保の地にあったが、天正(一五七三~一五九二)末、火災にかかり、伽藍古記等ことごとく灰燼に帰した。その後間もなく現在地に移転再建したと伝える。開山以来二十一世代を経て当代に及ぶが、その間小田原北条氏から寺領を請け、徳川氏からは高八石と寺中山林竹木諸役免除の朱印状を授けられた。
本堂には本尊釈迦如来、脇侍文殊・普賢両菩薩の三尊が安置される。
境内は千二百八坪。
旧伽藍は本堂間口九間・奥行七間、向きは東北、宝暦四年(一七五四)に修繕の記録があるが、建立年月は不明。昭和五年内外に大改修が施された。同四十八年に客殿・庫裡等の新改築が実施された。このとき旧来の庫裡をとり壊し、跡地に客殿を、その北側に庫裡をそれぞれ新築し、併せて本堂屋根の葺き替えと東・北・西の濡れ縁の取り外しを行った。この諸普請は五十一年竣工した。
観音堂は三間四方、西北向ぎ、塗りごめ格天井・丸柄・丸柱、文政年間(一八一八-一八三〇)の建立。本尊は馬頭観世音石像、高さ一尺二寸、俗に「持ち上げ観音」の名で知られており、現在は本堂と客殿との間に安置してある。堂の須弥壇には代わりの石像と十王像とが安置されている。十王像は下河原にあった西明寺の持ち物であったが、同寺が廃寺となったのち、明治十年(一八七七)八月この堂に移し安置された。
山門は六脚総欅造、間口一間半、嘉永六年(一八五三)の再建。彫師は八王子八幡宿小川屋巳之助、石工は相州厚木の秋本忠次郎、瓦師は万願寺の金子元次郎、棟梁は日野宿天野巳之蔵・奥住直次郎・八王子八木宿守屋勘吉等である。
客殿の南側には、古くから裏山を借景にした庭園がある。築山池泉のほとりに、古木や佳岩を配して静寂の趣を伝えている。
鐘楼は九尺四万で、延享二年(一七四五)梵鐘新鋳の際建立した。梵鐘の総高は四尺、外直二尺一寸三分、鋳工は江戸神田住西村和泉守であった。この梵鐘は第二次大戦中供出したが、梵鐘銘は拓本として遺されている。
現在の梵鐘は、昭和四十年十一月落慶したものである。(日野市史より)


宝泉寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 日野市史