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良价山宗格院|八王子市千人町にある曹洞宗寺院

宗格院の概要

曹洞宗寺院の宗格院は、良价山と号します。宗格院は、山本土佐忠玄・彌右衛門忠房父子が千人頭に任ぜられて甲州より八王子へ移ったのに従い、山本土佐忠玄の子价州良天和尚が臨済宗宗格庵と号して文禄2年(1593)に草創、興福寺第六世永雲和尚の願により曹洞宗に改め良价山宗格院と號す一寺となったといいます。八王子七福神の寿老尊です。

宗格院
宗格院の概要
山号 良价山
院号 宗格院
寺号 -
住所 八王子市千人町2-14-18
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



宗格院の縁起

宗格院は、山本土佐忠玄・彌右衛門忠房父子が千人頭に任ぜられて甲州より八王子へ移ったのに従い、山本土佐忠玄の子价州良天和尚が臨済宗宗格庵と号して文禄2年(1593)に草創、興福寺第六世永雲和尚の願により曹洞宗に改め良价山宗格院と號す一寺となったといいます。

新編武蔵風土記稿による宗格院の縁起

(八王子千人町)宗格院
除地、二段七畝二十八歩、馬場の側にあり、良价山と號す、禅宗曹洞派、上椚田村興福寺の末山なり、寺記を閲するに、當寺は文禄二年价州良天和尚の草創する處なり、良天は甲州武田家の人山本土佐忠玄と云ものの子なり、山本氏世々山梨郡恵林寺の檀越たるにより、幼より剃髪して彼寺に入て臨済の宗派をうけしに、天正十年武田家滅亡の後、父忠玄及兄山本彌右衛門忠房共に、御當家へ召出されて千人頭となり、八王子に移り住せしにより、良天も亦従て當所へ来りて、興福寺に寓居せしが、後文禄年中千人組へ第宅の地を分ち賜ひしかば、良天その除地を請うひ奉り、草庵を造立して宗格庵と號せり、これは良天が父菩提のため立しものなれば、即ちかの法諡の字を用ひしなりと云、依て良天が兄忠房を以て開基とす、良天は文禄四年四月八日化す、享保の初までは猶庵室なりしに、興福寺第六世の住僧永雲和尚の願によりて一寺となり、良价山宗格院と號し、興福寺の第二世國芳和尚を以て傳法の開山となし、それより臨済を改めて曹洞派となりて興福寺の末山となれり、客殿六間半に五間半、本尊正観音を安ず、坐像にして長五寸九分、作知ず。
観音堂。客殿に向て左の方にあり、二間四方、正観音立身、長一尺一寸なるを安置す、佛師運慶が作る所なりと云。
鎮守社。同じ並にあり、稲荷金毘羅を相殿とす。
妙見祠。客殿に向て右の方なる小高き塚上にあり、この塚は昔経文を書寫して埋みししるしなりとて、今も猶経塚と唱ふといへり。(新編武蔵風土記稿より)


宗格院所蔵の文化財

  • 石見土手(八王子市史跡)

石見土手

八王子総奉行「大久保石見守長安」は、高尾山、景信山を水源とする浅川のたびかさなる氾濫を憂慮して、慶長年間川沿いに堤を築いた。これが「石見土手」と呼ばれ、上流は千人町、日吉町、元本郷町に、下流は新町甲州街道沿いに築き、土手に竹などを植えたと言われている。明治末頃まで所々に残存していたが、現在はここ宗格院境内に往時をしのばせる石垣堤が約六十米ほど残っているだけである。(八王子市教育委員会掲示より)

宗格院の周辺図


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参考資料
  • 新編武蔵風土記稿