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攝取山善能寺|八王子市元本郷町にある真宗大谷派寺院

善能寺の概要

真宗大谷派寺院の善能寺は、攝取山護念院と号します。善能寺の創建年代は不詳ながら、天正年間(1573-1591)に滝山から当地へ移転、勇観空栄(慶長8年1603年寂)が開山したといいます。勇観空栄は、落城した八王子城主中山勘解由家範の長子で、処刑されるべきところ、心源院住職卜山彼家範を葬った縁により、一命を取り留め僧籍に入ったといいます。江戸時代には寺領6石の御朱印状を拝領していました。

善能寺
善能寺の概要
山号 攝取山
院号 護念院
寺号 善能寺
住所 八王子市元本郷町1-1-5
宗派 真宗大谷派
葬儀・墓地 -
備考 -



善能寺の縁起

善能寺の創建年代は不詳ながら、天正年間(1573-1591)に滝山から当地へ移転、勇観空栄(慶長8年1603年寂)が開山したといいます。勇観空栄は、落城した八王子城主中山勘解由家範の長子で、処刑されるべきところ、心源院住職卜山彼家範を葬った縁により、一命を取り留め僧籍に入ったといいます。江戸時代には寺領6石の御朱印状を拝領していました。

新編武蔵風土記稿による善能寺の縁起

(本郷村)善能寺
境内、二千五百坪、浄土真宗、東本願寺の末、攝取山護念院と號す、寺領六石の御朱印を賜ふ、開山勇観空榮慶長八年五月十四日寂せり、或は中興の開山なりともいへり、此寺もとは瀧山郷にありしと云、今傳ふる所の記録に、本郷瀧山善能寺と記せしもの在は、其故なりとぞ、寺記に中山勘解由家範法名宗無八王子城に於て戦死のとき、子息尾張悪蔵兩人殺害すべきを、心源院の住持卜山彼家範を葬りし因をもて、尾張悪蔵二人は卜山和尚の弟子となす、天正十八年六月廿八日剃髪し、法號を長を勇観と云、次を勇放と云り、勇放は宗榮と改め、下恩方村浄光院に住し、後當寺の二世となれり、按に心源院は曹洞宗にて、宗闢寺の本山なりしに、この二弟子その住持卜山を師としながら、洞家には入らで、浄土真宗なる當寺と浄光院とに住すと云ものは、其いわれを詳にせず、本堂七間四面東向、本尊彌陀坐像にて、長二尺なるを安せり、門内の左右に寺家正西寺・宗善寺の二ヶ寺有。
什物。親鸞像一軀。長一尺五寸、これを旅立の木像と號す、縁起を按るに、宗祖親鸞承元元年の春南北碩才の憤りにより、配摘せられて都を出、弟子蓮位坊を具して新智山へ上り、文殊の像を拝す、峨々たる岳山に攀登り、兩足より血を流して紅にそみけるを、蓮位見て泣を流す、親鸞曰これもものかずならず、同くは是を見て彌陀の五劫永劫の苦を創造して、慈悲深を察すべしと、さて越後国府の配所に至り、件の姿を彫刻して、末世の同行に示さんと請ひ、親鸞の許可を得てその體を刻み、親鸞自その頭をきざみて、常に傍におく、これ則この旅立の木像なり、後親鸞常陸國へゆきける時、大部の郷に、平太郎と云ものありて親鸞の教化を受け、法名を真佛房と云、親鸞かれに自筆の名號と旅立の木像をあたへ、一首の歌を詠し、面影を世々に残して形見そと彌陀にかしつく便ともなれ、此歌をそへて示しけるにぞ、これより真佛房がもとに世々安置しけり、然るに當寺の中興開基空榮が時、東照宮此邊を御経歴ありて、浅川を御渡りしこの比、空榮拝謁して御朱印を賜はれり、然るに當寺宗祖親鸞の木像なきことをなげき申ければ、やがて御内意を得てかの真佛寺に安置せし旅立の木像を譲り受しとなり、時に慶長八年四月なりと云。
鐘楼。門内南の方にあり、開基空榮法師より歴代の名を刻し、延寳七年九月廿八日第三世現住全榮鋳建せる由を彫る、高さ三尺、径二尺九寸、この全榮は營造の功をつとめし僧にや、これよりさき寛永廿年十一月十五日に鋳し鐘あり、高さ一尺八寸餘、その形小なるを以改鋳しもの、これ今の鐘なり、されば寛永に鋳し鐘は、今半鐘として本堂に掛けおけり。(新編武蔵風土記稿より)

「八王子市史」による善能寺の縁起

善能寺(本郷村―元本郷町二二八)
東本願寺の末寺で、本尊阿弥陀如来、摂取山護念院と称し、江戸時代御朱印五石であった。この寺は天正年間(一五七三~一五九一)滝山より現地に移転したものといわれ、中興開山は中山勘解由家範の長男勇観空栄(慶長八年 一六〇三 五月一四日寂)であり、塔中に宗善寺、正西寺の二カ寺があった。(「八王子市史」より)


善能寺の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「八王子市史」