高安寺|府中市片町にある曹洞宗寺院

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龍門山高安寺|田原藤太秀郷の館跡、安国寺として再建、多摩川三十三ヶ所観音霊場

高安寺の概要

曹洞宗寺院の高安寺は、龍門山等持院と号します。高安寺は、田原藤太秀郷の館跡と言われる当地に、市川山見性寺と称して創建したといいます。鎌倉幕府滅亡後の暦応年間(1338-1341)、足利尊氏が全国に建立した安国寺の一つとして、当寺を臨済宗龍門山高安護国禅寺として再建、大徹心悟禅師が開山したといいます。戦国時代に疲弊したものの、慶長年間(1596-1615)に青梅の海禅寺第七世関州徳光禅師が曹洞宗寺院に改めて中興、江戸期には寺領15石の御朱印状を受領していたといいます。高安寺は、境内の諸堂宇・観音堂を始めとして数多くの文化財を所蔵、また弁慶硯の井戸や秀郷稲荷など、歴史を偲ばせる旧跡を残しています。多摩川三十三ヶ所観音霊場33番です。

高安寺
高安寺の概要
山号 龍門山
院号 等持院
寺号 高安寺
本尊 釈迦牟尼佛像
住所 府中市片町2-4-1
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



高安寺の縁起

高安寺は、田原藤太秀郷公の館跡と言われる当地に、市川山見性寺と称して創建したといいます。鎌倉幕府滅亡後の暦応年間(1338-1341)、足利尊氏が全国に建立した安国寺の一つとして、当寺を臨済宗龍門山高安護国禅寺として再建、大徹心悟禅師が開山したといいます。戦国時代に疲弊したものの、慶長年間(1596-1615)に青梅の海禅寺第七世関州徳光禅師が曹洞宗寺院に改めて中興、江戸期には寺領15石の御朱印状を受領していたといいます。

境内掲示による高安寺の縁起

当山は往古田原藤太秀郷公の館跡といわれ、その後市川山見性寺(宗派不明)が建立されたと伝えられている。しかし後に足利尊氏公将軍となるやこの寺を改めて、安国利生の祈願所として、龍門山高安護国禅寺を再建した。これは尊氏が全国(六十六ヶ国二島)に建立した安国寺の一つで、武蔵国のそれが当山である。
当時は鎌倉建長寺末の臨済宗で、開山は大徹心悟禅師であった。時に暦應年間と伝えられる。その昔は大伽藍で塔頭十院末寺も七十五院あり、寺領も広く東は代田村、西は貝坂、南は向山、北は山口に及んだという。
その後兵乱の間しばしば将軍家の陣所となり、小田原北條氏の庇護も受けたが、暦年の兵戦を経て衰えて大刹の姿も失っていった。時に慶長年間青梅の海禅寺第七世関州徳光禅師が、当山を再興し、済派を改めて曹洞宗となり今日に到る。開基足利尊氏公の発願である安国利生の祈願所として、毎朝朝課前に大般若経転読の祈祷を行っている。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による高安寺の縁起

(番場宿)高安寺
片町にあり、龍門山等持院と号す、洞門の禅宗、当郡二又尾村海禅寺の末、御朱印十五石の寺領を附せらる、末寺四院を統、本尊釈迦木の坐像、長二尺七寸余本堂に安す、開山大徹心悟貞治三年四月十四日寂す、中興開州徳光慶長十八年八月廿七日寂す、寺伝に境内は往古田原藤太秀郷の館迹なり、故に今に秀郷稲荷と称する小社あるはその故なりと、是天慶三年秀郷武蔵守となりて下りし時のことにや、その事巳に前條にいへり、又源義経弁慶もしばしばここに住居せしとて、今に弁慶の井と称する古井あり、谷保村の安楽寺に蔵する所の、義経弁慶当書寫せし大般若経も、元来当院の什物なりしといふ、これ等のこといぶかしきこと多しといへども、姑く伝説のままを存す、又寺伝に将軍尊氏市川山見性寺といへる寺院を改て、龍門山高安護国禅寺と号し心悟禅師当寺を開山とし、其時は済門の禅宗建長寺末なりとぞ、按に寺寶の文書によれば、心悟禅師を中興せしは貞和四年の頃とみえたり、仍て尊氏を開基とし、其法諡を以て当山の院号とす、古へは大伽藍にて塔頭十院、末山も七十五院ありて、結界も広大にして東は代田村、西は貝坂、南は向山、北は山口に及び、延甕凡四里に亘れりといへり、其後兵乱の間しばしば将軍家の陣所となれり、永徳の初将軍氏満、小山義政を退治んおため、出陣の時当山に陣座せしむ、応永六年周防の大内助義弘京都にむかひ、逆心を起せし時、左兵衛督満兼府中に打出、当院へ動座、それより上州足利庄へ進行あり、応永の末将軍持氏小栗泰司として、下野国結城に事ある時、暫らく府中に陣座ありしが、同三十一年当山焼失所なきによりて鎌倉へ帰陣、又正長元年八月安房守憲実を討んとて、持氏将軍鎌倉を打立て当院に陣座あり、永享十年憲実を退治のため、持氏この地に進發せしに、たまたま持氏を退治として、上杉中務持房を大将として、関東へ下され、府中分倍に着陣、翌十一年正月持氏終に当院に於て自害す、又享徳四年将軍成氏上州の敵退治のため、鎌倉を立府中へ發向、当山に陣を取分倍の軍あり、この時大将右馬助入道憲顕深手を負て当寺に於て自害せり、かく暦年の兵戦を経て、後には衰へ行て古へ大刹のすがたも失へり、慶長中に及て海禅寺第七世徳光禅師再興の功あり、ここに於て済派を改て洞門となし、海禅寺を以て本山とす、今なを境内凡一萬四千坪あり、四方に小渠を穿て堤防を続らせり。
本堂。十二間に九間東向、等持院の三字を扁す、筆者は唐山の程赤城なり、外に竜門山と題せる山門の額あり、雪山の筆、今山門廃して別に蔵去す。
洪鐘。本堂の篇端に懸、元禄七年の鋳作。
稲荷社。小社、本堂の西にあり、秀郷稲荷と称す。
観音堂。五間四方門内にあり、正観音木の坐像三尺許、胎蔵に混沌佛長九寸許のものありと云、猶外に六体あり、各長二尺許、寺伝に継体天皇即位の三年、権化の雕作なり、承平年中、秀郷此像を感得し、後に一宇を建て安置すといふ、其他は今門外に観音橋と呼る所あり、其邊にありしとぞ、後洪水の患に逢て、今の所に遷せしといふ、又昔の山門及び禅室の跡なりとて、山堂の前にあり。
弁慶井。本堂の西北にあり、武蔵坊弁慶この所に住せし時、この井の水を以て大般若経を書寫せしゆへに、名づけしなりと云ひつたへり。
弥勒佛。銅造にて露座の像、その長薹共凡一丈許、本堂の前東向にたてり。
総門。甲州街道に臨みてあり、両柱の間九尺許、武野禅林の額を掲ぐ。ここより半町許を過て、本堂の前に山門及禅堂の遺蹟あり。
寺寶兜ノ鉢一頭。弁慶井より出し者と云、径り二尺二寸七分、其れ真偽は瓣せざれど是に図を出せり。
弁慶自画肖像一幅。
同木像一幅。長七寸許、三井寺の鐘を背負たる形像なり。弁慶自作とも或は運慶作ともいふ。もと村内百姓某家に伝来のものなりしを当寺へ寄附せしといふ。
陣鐃一口。径一尺三寸許、尊氏の時のものともいひ、或は持氏の比のものともいへり。
袈裟一項。尊氏より心悟に贈られしものなり。裏に記あり。如左(書状略)(新編武蔵風土記稿より)

弁慶硯の井戸について

弁慶硯の井戸は、壇ノ浦の合戦で平家を滅亡させた後、源頼朝の怒りにより鎌倉入りを許されなかった源義経・弁慶らが、当地で赦免祈願のため大般若経を写経した地だといい、谷保村の安楽寺が所蔵する大般若経も当寺が所有していたものだった(新編武蔵風土記稿)といいます。

弁慶硯
見性寺と呼ばれた頃の事、義経は兄頼朝の怒りにふれ腰越まで来たが、鎌倉入りは許されなかった。やむなく京都へ帰る途中、暫く見性寺に足どめし、弁慶等と赦免祈願のため大般若経を写したという。その時裏山から清水を汲み取ったので弁慶硯の井の遺蹟がある。(境内掲示より)

秀郷稲荷について

当地が田原藤太(藤原)秀郷の館だったことから、秀郷稲荷を祀っているといいます。

秀郷稲荷
田原藤太秀郷公を当山鎮守として裏山に祀る。(境内掲示より)


高安寺所蔵の文化財

  • 高安寺本堂・山門・鐘楼(東京都選定歴史的建造物)
  • 高安寺観音堂(府中市指定文化財)
  • 野村瓜州の墓(府中市指定文化財)
  • 高林吉利の墓(府中市指定文化財)

高安寺本堂・山門・鐘楼(東京都選定歴史的建造物)

龍門山高安寺は暦応年間に創設された臨済宗建長寺末であった。後に小田原北条氏滅亡後、慶長年間曹洞宗海禅寺の七世により再建された。
本堂は木造平屋建て、屋根は寄棟造銅板葺(旧茅葺)、六つ間取で内部正面に広縁、両側面に入側縁から構成されている。内陣や大間の組物廻りに意匠を凝らした点に特徴が見られ、大縁(八尺間)は禅寺基本の姿をとどめている。
山門は本堂の東方に位置する規模の大きい二重門である。木造(柱・梁等の構造材はすべて欅)二階建てで、屋根は入母屋造銅板葺、柱はすべて円柱である。初層の左右からも出入りできる点に特徴がある。
鐘楼は本堂の北東、庫裡の前方に建っていて、木造(柱・梁等の構造材はすべて欅)、袴腰付きで、屋根は宝形造銅板葺である。虹梁型頭貫の木鼻位置には龍の丸彫を配し、支輪板には鶴の浮彫彫刻を施すなど、山門ど同様、彫刻装飾を多く採り入れている。(東京都生活文化局掲示より)

高安寺観音堂(府中市指定文化財)

高安寺の観音堂は、もと寺の西、観音橋付近にありましたが、江戸初期の大水に流され、享保年間(一七一六〜一七三六)に現在地に再建されたと伝えられます。
この観音堂は、桁行三間・梁間三間の入母屋造りで、多摩地区においては数少ない江戸中期の三間堂です。
また垂木や組物そして格天井の彩色絵様など建築史的にみても十八世紀前半の特色を伝える貴重な堂宇です。(府中市教育委員会掲示より)

野村瓜州の墓(府中市指定文化財)

野村瓜州は本名は惟民、字は子則、通称は六郎右衛門といい、府中番場宿神戸(宮西町二丁目)の”四人部屋”という屋号の旅籠の主人であった。
彼は学問を好み、漢学者の野村延陵や服部仲英について学び、自ら松羅園という塾を開いて子弟の教育にあたった。また詩歌の才にめぐまれ、その恬淡洒脱な性格から江戸の文人墨客との交わりも多く、府中の”四人部屋”は江戸の趣味人の間でも有名であったといわれる。
瓜州は文化八年(一八一一)七十六歳で没したが、その墓碑銘は彼と交流のあった狂歌で名高い大田蜀山人(南畝)の撰によるものである。著書に「担々草」一巻がある。(府中市教育委員会掲示より)

高林吉利の墓(府中市指定文化財)

高林市左衛門吉利は、徳川家康に仕え、武蔵国府中領の最初の代官となった人である。彼はまた文禄元年(一五九二)二月、市域の旧押立村と常久村の大半を知行地として与えられたが、翌文禄二年七十二歳で没した。法名は桃林常仙居士である。
高林氏による押立・常久両村の支配は、その後吉次ー利春ー利之とつづき元禄十年(一六九七)まで合せて四代一〇〇年余にわたった。(府中市教育委員会掲示より)

高安寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿