米津寺|東久留米市幸町にある臨済宗妙心寺派寺院

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円通山米津寺|地頭米津出羽守田盛が開基、東久留米七福神の布袋尊

米津寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の米津寺は、円通山と号します。米津寺は、前沢村の地頭米津出羽守田盛(法名米津寺心田玄秀大居士、天和4年1684年寂)開基、僧大愚(寛文9年1669年寂)が開山となり創建したといいます。米津寺には米津氏の墓がありますが、米津氏は後加増され大名(久喜藩主)となったため、多摩地区で唯一の大名墓があるといい、また山門は、明治期の火災で寺の再建を果たすため、明治28年(1895)国分寺へ売却移築したといいます。東久留米七福神の布袋尊です。

米津寺
米津寺の概要
山号 円通山
院号 -
寺号 米津寺
住所 東久留米市幸町4-2-40
本尊 不動明王
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 東久留米七福神の布袋尊



米津寺の縁起

米津寺は、前沢村の地頭米津出羽守田盛(法名米津寺心田玄秀大居士、天和4年1684年寂)開基、僧大愚(寛文9年1669年寂)が開山となり創建したといいます。米津寺には米津氏の墓がありますが、米津氏は後加増され大名(久喜藩主)となったため、多摩地区で唯一の大名墓があるといい、また山門は、明治期の火災で寺の再建を果たすため、明治28年(1895)国分寺へ売却移築したといいます。

新編武蔵風土記稿による米津寺の縁起

境内2000坪。小名宿にあり。禅宗臨済派、京都妙心寺の末なり。本堂7間に6間南に向ふ。本尊釈迦にて木の坐像長2尺許。開山は大愚寛文9年7月16日示寂。開基は当村の地頭米津出羽守田盛法謚して、米津寺心田玄秀大居士と云。天和4年正月25日歿せり。行年は69歳なり。
御影堂。本堂に向て左の方にあり。2間に2間半、東に向ふ。開基米津出羽守守田盛及其家三世米津某の木像を安す。共に長3尺許。
鐘楼。9尺四方。本堂の前にあり、鐘は近代の新鋳なり。
棲門。3間に2間南向。十六羅漢の像を安す。各長1尺5寸ばかりの木像なり。(新編武蔵風土記稿より)

東久留米市史による米津寺の縁起

米津寺は、前沢村の地頭であった米津出羽守田盛を開基とし、大愚(寛文九年、一六六九示寂)を開山とする禅宗寺院で、江戸時代を通じて、米津氏の菩提寺であった。
米津出羽守田盛の祖先は、徳川の御家人であったが、田盛の父国政の時に関東町奉行職となり、田盛の時には御書院番頭、火番頭、大坂城番を勤めて、禄高一万五〇〇〇石であった。
田盛以後の系譜は、田盛-政武-政矩-政容-政崇-通政-政懿-政易で、幕末に至るまで幕府に仕えた。墓地には、田盛(天和四年、一六八四没)、政矩(元禄一六年、一七〇三没)、政崇(天明四年、一七八四没)、政懿(嘉永四年、一八五三没)の墓碑があり、その他の者は多く、江戸御府内の寺に葬られている。
当寺は、明治二二年、本堂、庫裏を焼失して、過去帳、文書もほとんど残っていないので、造営に関しては明らかでなぃ。その時の火災で、わずかに楼門が焼失を免れたが、再興のために国分寺に売却された。現在の国分寺山門が、その楼門で、三門一戸、重層、入母屋造り、鉄板葺、総﨔造り、折衷様の様式である。屋根は、もと茅葺であったが、国分寺に移建されてから、鉄板葺に改められた。『新編武蔵風土記稿』にも、「楼門、三間に二間南向、十六羅漢の像を安す、各長一尺五寸ばかりの木像なり」と記されており、化政期ごろのものと思われる。(東久留米市史より)


米津寺所蔵の文化財

  • 米津家墓笠付六角塔身型墓標(東京都指定旧跡)

米津寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 東久留米市史