全生庵|台東区谷中にある臨済宗国泰寺派寺院

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全生庵|山岡鉄舟が明治16年に建立

全生庵の概要

臨済宗国泰寺派の全生庵は、山岡鉄舟が徳川幕末明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔う為に、明治16年に建立したといいます。

全生庵
全生庵の概要
山号 -
院号 -
寺号 全生庵
住所 台東区谷中5-4-7
宗派 臨済宗国泰寺派
葬儀・墓地 -
備考 新規墓地受付中



全生庵の縁起

全生庵は、山岡鉄舟居士が徳川幕末明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔う為に、明治16年に建立したといいます。

境内掲示による全生庵の縁起

当庵は山岡鉄舟居士が徳川幕末明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔う為に、明治16年に建立した。全生庵を寺号とし、居士邸からかつて江戸城の守本尊であった葵正観世音の霊像を遷して本尊とした。臨済宗国泰寺派で、開山は越そう和尚、開基は山岡鉄舟居士である。又、居士との因縁で落語家の三遊亭円朝、国士の荒尾精、山田良政、岡田満、石油開発者の石坂周造、長谷川尚一、画家の松本楓湖、教育家の棚橋絢子の墓所があり、円朝遺愛の幽霊画50幅、明治、大正名筆の観音画100幅が所蔵されている。(境内掲示より)

「下谷區史」による全生庵の縁起

全生庵(谷中初音町一丁目四一番地)
越中國泰寺末、普門山と號す。本尊葵正観世音。明治十三年十月起立、山岡鐵舟を開基とし、越中氷見の國泰寺住職松尾越叟を開山とする。全生庵の名は同十六年、寺地擴張と共に命ずる所で、鐵舟が機縁あつて角谷某より獲た鎌倉建長寺開山蘭渓道隆筆の扁額によつたのである。鐵舟も亦この三大字を書し、堂の内外に掲げたが、明治二十七年、當寺火災に罹り、二額共に灰燼に歸した。後、山岡未亡人を介して小松宮彰仁親王殿下の染筆を賜はり、之を木に刻して再建本堂に掲げた。本尊葵正観世音は毘首羯磨の作と傳へられ、京都東福寺支院長慶寺に在つたのを、徳川家康之を江戸城に遷し、毎月十八日観音懺法を修行し、天下泰平を祈願し、徽號癸の字を冠せられた。慶安二年徳川秀忠の女千代姫(千姫)が普門山大慈寺を大塚上町に建立して、其處に安置したのを、同寺は維新の際廢寺となつたため鐵舟邸に遷し、供養を懈らなかつたが、明治十六年當寺に遷して本尊としたのである。寺寶に昭憲皇太后宸筆和歌短冊、鐵舟居士遺物護皇洋刀、大燈國師真蹟、元黄大癡書その他數十點がある。また寺内に、山岡鐵舟、荒尾精、三遊亭圓朝の墓がある。(「下谷區史」より)


全生庵所蔵の文化財

  • 山岡鉄舟墓(東京都指定旧跡)
  • 三遊亭円朝墓(東京都指定旧跡)
  • 弘田龍太郎墓・曲碑(台東区登載文化財)
  • 木像観音菩薩像(台東区登載文化財)

木像観音菩薩像

幕末維新の剣客・政治家山岡鉄舟の開創で有名な全生庵の本尊であるこの観音像は、「葵観音」と呼ばれ興味深い伝来をもっています。この像はもともと日向国にあった大慈寺という寺院にあったもので、のちに京都の東福寺塔頭長慶寺に移され、さらに豊臣家に嫁いだ徳川家康の孫千姫によって江戸城に迎えられました。千姫が亡くなるとこの像は姫の侍女が開いた大塚の大慈寺に姫の遺品とともに安置され「葵観音」の名で知られました。しかし明治維新になってまもなく大慈寺は廃寺となったため、山岡鉄舟がこの「葵観音」を自邸にひきとり、のちに全生庵の本堂に迎えたということです。
この像は平安時代後期の作で、やわらかな線に典型的な定朝様の作風がうかがえます。また、くりぬかれた像の内側に漆塗が施されている点に特徴がありますが、このような作り方は多くの場合像内に品物を納入するためで、平安時代後期の上級貴族が願主になって作られる仏像にいくつかみられます。この像も同じく品物の納入を考えて作られたものと思われます。


全生庵の周辺図


参考資料

  • 「下谷區史」