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猫の足あと

龍宝寺|鯉寺、台東区寿にある浄土宗寺院

龍宝寺の概要

浄土宗寺院の龍宝寺は、珠島山是応院と号します。龍宝寺は、岡崎で徳川家康に仕えていた然蓬社本譽上人是応大和尚が、徳川家康の関東入国後に江戸へ召し出され、あてがわれた居住地を是応庵と号して創始、一寺建立を願ったところ、酒井雅楽頭殿先祖河内守重忠(法名修賡院殿崇蓮社徳誉仁興大居士)が檀家となり、正保4年(1647)創建したといいます。是応大和尚は、後に京都本山百万遍知恩寺へ転住、当寺は浄土宗鎮西派白籏正流の大梵刹となり、構檀樹林の規格出斑独謁の寺格を拝領、江戸期には寺中6ヶ院を擁した大寺だったといいます。大鯉を食べて悶死した者が出た際に、大鯉の供養塔を建立し、参詣が絶えなかったことから鯉寺とも呼ばれています。

龍宝寺
龍宝寺の概要
山号 珠島山
院号 是応院
寺号 龍宝寺
住所 台東区寿1-21-1
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 鯉寺



龍宝寺の縁起

龍宝寺は、岡崎で徳川家康に仕えていた然蓬社本譽上人是応大和尚が、徳川家康の関東入国後に江戸へ召し出され、あてがわれた居住地を是応庵と号して創始、一寺建立を願ったところ、酒井雅楽頭殿先祖河内守重忠(法名修賡院殿崇蓮社徳誉仁興大居士)が檀家となり、正保4年(1647)創建したといいます。是応大和尚は、後に京都本山百万遍知恩寺へ転住、当寺は浄土宗鎮西派白籏正流の大梵刹となり、構檀樹林の規格出斑独謁の寺格を拝領、江戸期には寺中6ヶ院を擁した大寺だったといいます。

御府内寺社備考による龍宝寺の縁起

京都百万遍知恩寺末 浅草新堀端
珠島山是応院龍宝寺 境内古跡拝領地三千三百六坪内門前町屋
当寺起立由緒井開山事蹟
本譽上人氏族詳ならす。増上寺第十代感誉存貞上人に師事して蛍雪積功、宗門の奥儀を稟承して一箇の法将たり。後に三州大樹寺登誉天宝上人の選挙を以大神君様の御側に勤仕、平日天下安全武運御長久の御祈祷を日夜勤修して、傍に読書手跡役を執務する事年久し。曽て
神君様江戸御入城之時、是応を召連られ八代渕河岸に棲息の居所を賜り、自分の名を標して是応庵と云。然るに慶長十六年八代渕河岸御用地に被召上、是応江代地被下、則今の地に転る也。此時是応言上しけるは
大君此地に長く金城を築玉へハ我も亦此地に一寺を建立して宝算の長久を祝賀し奉事せんと具に奏しけれハ、速に御許しあり。此時酒井雅楽頭殿先祖河内守重忠侯、是応江告給ふ。それかし上人と参州己来懇意を結ふ事年久し。此ころ間に上人一寺建立の企ありと。然るに我家いまた此地ニ足たる菩提寺なし。
よてそれかし貴僧の願望を助成し、経営成就せハ吾家の菩提寺と定めんと云々。則師檀の契約ありて、其事を上聞に達せしに具に聞し召せられ、双方志願の浅からぬ事を感し玉ひて其事を許させ玉ふ。よて伽藍の地を賜り(但壱町四方)仏餉料として是応庵の給米を其侭末長く下し給るへしとの御上意なりしかハ、是応限りなく悦ひ君恩の深きを拝謝し奉れハ、重忠侯も同恰ひ玉ひて、不日に殿堂房合の経営を命給ふ。
材木工匠は重忠侯御扶助也。幾程なく造営成就しけれハ、是応の庵の号を移し改て是応院と名け、山を珠島と云、寺を龍宝ト云。具に珠島山是応院龍宝寺と号、浄土宗鎮西派白籏正流の大梵刹となる。既に起立志願のことく成就せしかは、其趣言上し厚く恩賜を謝し奉りしに、其折から構檀樹林の規格出斑独謁の寺格を賜りぬ。よて今に至りても旧例之ことく年頭之御礼其外御大礼の時は御末広并杉原を進献し奉り、大広間御下段に着座して御目見、西御丸様江茂御同様に献上御目見中上、御時服等拝領もあり。次に寺録之事、先に住庵の給米を其侭仏餉料として下し賜るへしとの上意成心か共、すてに伽藍の地所を賜り又寺格をも賜りて厚く寵恩を蒙りしことなれハ、寺録の賜のハ固辞せよと重忠侯ねんころに教諭し玉ひし侭、則教に随ひ辞してうけさりき。
是に依て重忠侯の家より弐百石御寄附ありて、住侶の資糧に備ふるもの也。此仏餉二百石は元禄のころ寺門異変のときゆへなく止ぬ。且上人門下の学侶各々支院を開創す。凡九ケ院有り。既に造営終り格禄備足して余寺不共の勝刹と成ぬ。時に上人法幢を建て会下の学徒及ひ方来負笈の学生大殿に集会す。大本無量寿経建立常然の法則を挙て問答商量して慧解を開発せしむ。常日講莚を開きて僧侶策励し玉ふ。然れとも殿中常日の御祈ありけれハ、自坊法務を嫡弟称名院清伝代勤をなし、今に此例残れり。曽而神君様駿州へ移らせし後は、是応屡々台徳院様御側に出仕して御析申上る事、全く前々の通り。また時々
駿府様江も参りで御機嫌を伺奉り、或ハ御内用の御使をも動けれハ
両御所様深く御慈愛をたれ玉ひて御親敷勤仕奉る事凡四十余年、当山に在住十八年、然るに寛永五辰年京都本山百万遍知恩寺無住と成りて後住の人選ありし時、上人此選にあたけて恭々
台廟の尊命を奉して知恩寺江移転せり。彼寺三十六代に当れり。本山の規格なれハ紫袍を賜り大和尚の位に進む。惜哉在住わつかに三年して同七年午正月廿九日彼山二於て示寂せり。享年六十九歳。
前書坪数之処者古来の書上仕候得共、内実ハ表通六拾二間三尺裏行六拾四間弐尺、此坪数凡三千四百坪程有之候。
開山然蓬社本譽上人是応大和尚
開基檀主酒井河内守源重忠、戒名修賡院殿崇蓮社徳誉仁興大居士、元和三丁巳年七月廿一日逝去。遺骸ヲ前橋龍海院ニ葬ス。
本堂。
本尊阿弥陀仏、坐像丈弐尺六寸春日作。
宗祖善導円光両大師木像二体
今上皇帝等之寿牌三基
御代々尊牌
阿弥陀、立像、位牌堂ニ安置。
同、坐像丈一丈五寸、恵心作、常行堂本尊之処当時常念仏休候ニ附内仏堂ニ安置。
釈迦如来、銅坐像、京都大仏殿之写、檀家ヨリ奉納。
大黒天
東照宮様御影。右は当寺第二世円誉文学拝絵、明和度以来仕舞置候。
洪鐘、高五尺、亘二尺六寸。
銘文
武州豊島郡江戸浅草浄土 龍宝寺十代
応蓮社喚誉上人忍刀専意大和尚
宝永七庚寅年二月廿五日
江戸神田住粉川丹波守作
戒名数多鋳顕有之(略ス)
祐天大僧正名号塔 高壱尺八寸、幅弐尺五寸、四面共名号彫
右は元禄年中後藤庄三郎先祖志願によて当寺江常念仏興立。則常念仏堂本尊安置之処、明和度類火の節堂舎致焼失、名号石も致焼損候ニ付、堂外江移之、前書之本尊安置いたし候。然る処、後藤家寛政年中家名致断絶、依之常念仏も致退転候。
銅地蔵尊
右者享保十三申年第十一世信誉了俊代、発心者法誉空我寄附。
地蔵堂、土蔵造九尺二間
三体日限願満地蔵 疱瘡神三霊大明神
右ハ当寺十四世到誉円隆瑞夢ニ依て安置。
鎮守社、七尺四方
弁財天、初音稲荷
当山寅之方築山、初音の森と古来より唱来り、今に至ても鴬の囀り余所よりも早し。往古ハ境内一円ニ古木生茂り一ケ之山林之よし。度々の類火にて焼払申候。
長昌院様御両親田中治兵衛尉法名清光院殿・松寿院殿井御兄弟長寿院殿・雪窓院殿・雲松院殿、都合御五方之御石牌有之。松平右近将監殿の祀之。雲松院殿ニ二男有り。文廟之御代嫡男尾林源右衛門嘉久江九百石、次男清右衛門良中江八百石賜り、両家共当寺檀家也。
宝筐印塔丈八尺六寸
井戸。起立之砌酒井家より掘之。此辺一円芦沼ニ而浄水ニ乏し。依て四方の来り汲水。恩を謝して酒井殿井戸といふ。
寺中六ケ院 (御府内寺社備考より)

境内石碑による龍宝寺の縁起

嘉永6年(1853)3月29日、浅草新堀川龍寶寺門前付近に四尺五寸程なる大鯉浮かびいたるを見て、町の人々大騒ぎとなり之を捕えんとせしも大鯉暴れ容易に捕獲出来ず遂に船を出し血気の若者達数名川に飛び込み各自刃物竹槍等にて突き刺し漸く大鯉の弱りたるところを捕え河畔なる龍寶寺庭内大池に放ちやりしか。4月3日大鯉は遂に死せり。
然るに近隣の者、その夜大勢集まりてこれを食せしところ、にわかに高熱にななされ吐血する者も有り40日余大いに苦しみたり。特に料理せし者のうち2人は同月16日に、他の4人は同月23日相次いで悶死せり。遺族の者達この不思議なる祟りにおどろき、ゆかりの者一同と心を合わせ鯉の霊を慰めんと龍寶寺境内に供養の碑を建て篤く弔いたり。
やがて風間日々に広まり参詣する者次第に多く又不思議にもろもろの奇瑞をあらわし、とりわけ安産子育て開運出世縁結びなどには霊験あらたかなるにより、参詣人の讃仰いと篤く江戸中の評判となり。
これよりいつしか龍寶寺を鯉寺と言い伝えたり。
然るに大正12年9月1日の大震火災にて碑は崩れ去り、昭和12年4月3日、千人に及ぶ善男善女の結縁協力に依り昔に勝る鯉塚の再現となり。あらたに昇鯉観音堂建立を再現し江戸以来の名跡復活なると信徒の者達大いに喜びいたりしも、無情なり日米開戦後、昭和20年3月10日東京大空襲の折再度崩壊の厄に逢い、爾来39年の星霜を経て今日に至る。
然るに此度信徒の有志の人々大いに惜しく思いて今ひとたび再建の大願成就を期し、精進結集の祈り空しからず遂に機熟してここに入魂かがやく鯉塚の層心を戒しめ、江戸名跡の保存伝承ならびに昇鯉観音信仰に思いを致し、併せて各精霊の冥福を祈り、広く世の人の幸福を分たんとするものなり。(鯉塚縁起の碑より)


龍宝寺の周辺図


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