本法寺|墨田区横川にある日蓮宗寺院

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妙栄山本法寺|狩野元信の墓・伊藤宗印の墓碑

本法寺の概要

日蓮宗寺院の本法寺は、妙栄山と号します。本法寺は、文禄4年(1595)寿明院日慶上人が神田に土地を拝領して創建、慶安2年(1649)上野谷中へ、元禄2年(1689)当地へ移転したといいます。境内には狩野元信の墓・伊藤宗印の墓碑があるといいます。

本法寺
本法寺の概要
山号 妙栄山
院号 -
寺号 本法寺
住所 墨田区横川1-12-12
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



本法寺の縁起

本法寺は、文禄4年(1595)寿明院日慶上人が神田に土地を拝領して創建、慶安2年(1649)上野谷中へ、元禄2年(1689)当地へ移転したといいます。

「墨田区史」による本法寺の縁起

本法寺(横川一丁目一二番一二号)
文禄四年(一五九五)に、寿明院日慶上人が神田(千代田区内) に土地を拝領して創建したと伝えられる。慶安二年(一六四九)二月に谷中(台東区内)に移り、更に、元禄二年(一六八九)一月に現在地に移転した。日蓮宗京都本圀寺の末寺で、妙栄山と号し、本尊は大曼荼羅である。
墓域には、絵画狩野派の一流である山下狩野家歴代の墓、深川木場狩野家累代の墓や、昭和三十年に狩野文氏によって再建された狩野元信の墓碑などがある。元信は室町後期の画家で、父正信の水墨画風を受け、これに濃彩の技法を加えて狩野派の作風を大成した人である。世に古法眼と称されている。(「墨田区史」より)

「東京名所図会」による本法寺の縁起

本法寺
本法寺は。太平町一丁目百三十番地に在り。妙榮山と號す。日蓮宗にして。京都本國寺の末なり。文禄四年日慶上人神田に創建し。慶安年間に至りて谷中に移り。元禄中此地に轉ぜしといふ。
もと寺中に法雲院、本妙院、玄授坊。十乗坊、真如坊、住詮坊ありしが。今はなし。(東京名所図会より)


本法寺所蔵の文化財

  • 狩野元信の墓
  • 伊藤宗印の墓碑
  • 狩野薫川墓

狩野元信の墓

本法寺は、文禄4年(1595)、日慶が神田に創建し、慶安2年(1649)谷中に移り、さらに元禄2年(1689)に本所の現在地に移転しました。 狩野元信は室町時代の画家です。文明8年(1476)、狩野派の始祖狩野正信の長男として京都に生まれました。のちに将軍義晴の命により剃髪して法眼となり、永仙と号しました。父の跡を継いで室町時代の御用絵師となり、狩野派発展の基礎を確立しました。 元信は父の画風を受け継ぎながら漢画の既成諸様式を修め整理融合し、大和絵の手法を加えて装飾性豊かな障壁画の様式を大成しました。代表作には大徳寺大仙院客殿襖絵や妙心寺霊雲院旧方丈襖絵などがあります。永禄2年(1559)10月16日、84歳で没しました。 この墓は昭和30年10月狩野文氏によって再建されたものです。(墨田区教育委員会掲示より)

狩野薫川墓

江戸幕府の御用絵師には、表絵師と奥絵師の区別がありました。このうち奥絵師は徳川将軍への御目見を許された格式で、毎月定日に登城し、御絵部屋に詰めて御用をつとめました。この奥絵師を代々世襲したのが、狩野正信(室町幕府の御用絵師)を祖としたいわゆる狩野四家(鍛冶橋狩野家、木挽町狩野家、中橋狩野家、浜町狩野家)です。本法寺が管理するこの墓地には、その狩野四家の一つ、浜町狩野家の家督を継いだ狩野薫川(1811-1871)の墓があります。
狩野薫川は、木挽町狩野家八代・狩野伊川院の五男で、天保2年(1831)に22歳の若さで夭逝した浜町狩野家七代・狩野友川の跡を継ぎ、弘化元年(1844)12月に法眼の位を与えられました。絵巻物の模本を作成するなどしていた様子が「雪舟山水長巻模本」(岡山県立美術館所蔵)、「大臣影」(国立公文書館所蔵)など現存作品からうかがい知られます。弟子には商業写真の先駆者の一人とされる下岡蓮杖がいました。(墨田区教育委員会掲示より)

本法寺の概要


参考資料

  • 「東京名所図会」
  • 「墨田区史」