元徳稲荷神社|墨田区立川の神社

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元徳稲荷神社|腫物平癒、元・徳右衛門邸内の稲荷社

元徳稲荷神社の概要

元徳稲荷神社は、墨田区立川にある神社です。元徳稲荷神社は、河村徳右衛門氏が氏神として岡崎で祀っていた社といい、江戸開府に伴い、河村氏も出府、神田徳右衛門町で祀っていたといいます。明暦3年の大火後、河村家は本所へ移転、社も邸内から三ノ橋畔に移祀し元徳右衛門邸内のお稲荷という意味から元徳稲荷と称するようになったといいます。当社の分霊を勧請した元徳稲荷神社綱敷天満神社が中央区日本橋浜町にあります。

元徳稲荷神社拝殿
元徳稲荷神社の概要
社号 元徳稲荷神社
祭神 宇賀御魂神
相殿 -
境内社 -
住所 墨田区立川3-18-2
祭日 -
備考 亀戸天神社による兼務



元徳稲荷神社の由緒

元徳稲荷神社は、河村徳右衛門氏が氏神として岡崎で祀っていた社といい、江戸開府に伴い、河村氏も出府、神田徳右衛門町で祀っていたといいます。明暦3年の大火後、河村家は本所へ移転、社も邸内から三ノ橋畔に移祀し元徳右衛門邸内のお稲荷という意味から元徳稲荷と称するようになったといいます。

境内掲示による元徳稲荷神社の由緒

元徳稲荷神社は、河村徳右衛門氏が未だ三河岡崎に在った時、河村家の氏神様として、名匠に依頼して彫刻させ、伏見稲荷社より神璽を遷してお祀りしたのが始まりである。
徳川家康が江戸城を開いた折、河村氏も江戸に出府を命ぜられ、神田川沿岸に土地を賜り、町名を徳右衛門町と称した。その際、稲荷神社も江戸の邸内に移された。そして、二代目徳右衛門の妻女が、難性の腫物を患い稲荷神社に祈願して平癒した。それを聞いた町の人々が三々五々お参りし、平癒すると土地の産物である里芋を供えてお礼をした。
明暦3年(1657)江戸に大火(通称「振り袖火事」)があって、幕府は火災に強い町づくりを進め、このニュータウン計画により河村家は本所(立川3丁目付近)に移封され、この処を徳右衛門町と称して、稲荷神社も移祀した。しかし、その後も参拝する人が絶えず、多くの参拝の便を考え、屋敷内から三ノ橋畔に移祀した。
邸内にあった時は正一位稲荷大明神と称していたが、三ノ橋畔に移祀したのを機に元徳稲荷神社(元徳右衛門邸内にあったお稲荷さんの意)と改称した。近在に飛火という腫物の病が大流行した折、里芋を供えて平癒祈願したと伝えられている。後に明治の中期に活躍した九代目市川団十郎も腫物に苦しめられた時、当神社に参拝したと記録されている。(元徳稲荷神社総代会)

東京都神社名鑑による元徳稲荷神社の由緒

慶長のころ(一二四九-五六)三河国の郷士河村源右衛門は稲荷の信仰あつきため神像を名工に依頼し、伏見稲荷より神霊を移し邸内に社を設けた。江戸開府にあたり、徳右衛門も江戸にのぼり、神田川の沿岸の地を賜わり邸内に故郷の稲荷社を移した。二代目徳右衛門の妻難性の腫物を患い、この稲荷社に祈願して平癒した。のち近隣の人びと多験なる稲荷を拝まんとするために門戸を開放した。歌舞伎の九代目団十郎の顔面に腫物ができたのを当社に祈願して平癒したので、いっそう信仰があっくなった。のち神田より本所徳右衛門町に移り、三の橋畔に奉斎された。徳右衛門の名を偲び「元徳稲荷神社」と称した。明治に入り縁日を開き出店二百余軒におよんだという。(東京都神社名鑑より)

「墨田区史」による元徳稲荷神社の由緒

古くは神田柳原和泉橋付近にあった名主河村徳右衛門の屋敷内に祭られた屋敷神であった。周辺の拝領地が、江戸の発展につれて町屋となったのに伴い、町名を徳右衛門町とし、町民の稲荷社への参詣も許した。
元禄六年(一六九三)に至って、徳右衛門町は竪川南岸に移転し、同時に稲荷社を三之端際に安置して、元は徳右衛門の稲荷社ということから「元徳稲荷」と称して町内神としたという。祭神は宇賀御魂神である。(「墨田区史」より)


元徳稲荷神社の周辺図