榎稲荷神社|墨田区立川の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

榎稲荷神社|境内に林立していた榎

榎稲荷神社の概要

榎稲荷神社は、墨田区立川にある稲荷神社です。榎稲荷神社は、天和3年(1682)菊川の堤に建立、土手稲荷と称していたといいます。その後大久保紀伊守の邸内社となり、境内に林立する榎により榎稲荷大明神と称したといいます。関東大震災の後当地へ移転しました。境内には石黒善次氏寄贈の地蔵尊が祀られています。

榎稲荷神社
榎稲荷神社の概要
社号 榎稲荷神社
祭神 宇賀御魂神
相殿 -
境内社 -
住所 墨田区立川4-12-24
祭日 -
備考 -



榎稲荷神社の概要

榎稲荷神社は、天和3年(1682)菊川の堤に建立、土手稲荷と称していたといいます。その後大久保紀伊守の邸内社となり、境内に林立する榎により榎稲荷大明神と称したといいます。関東大震災の後当地へ移転しました。

東京都神社名鑑による榎稲荷神社の概要

傍に菊川という川があり、その堤のうちに天和三年(一六八二)二月に当社が建立されたと伝えられる。よって土手稲荷と称した。宝暦年中(一七五一-六四)中風流行し、当社に平癒を祈願し、榎の皮を採り帰るにその効著しかった。祈願を遂げた人びとは講中をつくり社殿を造営した。その後、現在地に移り、大久保紀伊守の邸内社となり、一農家がこれを守護していた。その後、町内で石鳥居、漱水盤を奉納した。万延年間(一八六〇-六一)に隣接の氷川大乗院配下本山修験吉祥院が守護した。いつのころよりか境内に林立する榎により、榎稲荷大明神と称したといわれる。大正大震災にて焼失後、区画整理により現在地に移転した。(東京都神社名鑑より)

「墨田区史」による榎稲荷神社の概要

一説に天和三年(一六八三)の起立とされる。かつては現在地より少し東方にあって、南北に流れる菊川という小川の土手に面していた。この菊川と大横川にはさまれた一帯は、明暦三年(一六五七)の大火後の本所開拓に当たって、天和三年九月に御仲間組の町屋敷となっているから、あるいはこの時に地守神として祭られたものであろうか。古くは土手稲荷と称していたという。現在地には、関東大震災後の区画整理のときに移転したもので、社殿の左角に二本のえのきがある。(「墨田区史」より)

榎稲荷神社所蔵の文化財

  • 地蔵尊

地蔵尊の由来

大東亜戦争中昭和20年3月10日未明、敵空軍爆撃機の焼夷弾による大空襲をうけ下町一帯は崩壊状態となり尊い人命を数多く亡し其の数実に10万人と言います。
攻撃に参加した敵爆撃機298機、投下焼夷弾1783トン、被災者数100万人、焼失家屋27万戸、負傷者数14万人、当菊川公園に埋めた人4515人に達し当町の住民の中からも多数の焼死者を出し、無人の町に等しくなるも終戦により町に復帰する人も日毎に多くなり、其の生存者の間から犠牲者の冥福と恒久平和を念じて地蔵尊建立の運動が起き、当時この町の住民で菊川小学校で奇跡的に難を免れ、船橋市に疎開中の石黒善次氏に話が伝わり、同氏の浄財により昭和21年5月地蔵尊を菊川公園に建立し町に寄贈され昭和40年菊川公園改修のため現在地に移転、今日に至り以来毎年3月10日の戦災記念日には盛大に犠牲者の霊を弔うと共に人が人を愛し世界の国々が平和で人類が何時迄も仲良く幸であることを祈るものである。(立川四丁目町会)


榎稲荷神社の周辺図