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西念寺|新宿区若葉にある浄土宗寺院、服部半蔵開基

西念寺の概要

浄土宗寺院の西念寺は、専称山安養院と号し、1593年(文禄2年)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山、1634年(寛永11年)に当地へ移転しました。もと浅草西福寺末で、信寿院、長閑院を境内に寮舎として擁していました。

西念寺
西念寺の概要
山号 専称山
院号 安養院
寺号 西念寺
住所 新宿区若葉2-9
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 西念寺会館で一般の葬儀利用可能
備考 -



西念寺の縁起

西念寺は、専称山安養院と号し、1593年(文禄2年)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山、1634年(寛永11年)に当地へ移転しました。もと浅草西福寺末で、信寿院、長閑院を境内に寮舎として擁していました。

専称山西念寺は1593年(文禄2年)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山されました。服部半蔵は徳川家康の重臣で、槍の名人、忍びの達人として知られております。
家康には築山午前との間に武勇に勝れる長子信康がありましたが、それゆえに織田信長の目を引く所となり、信長は愛娘を嫁がせ、一族とし、二女がありました。
しかし、それでも織田家は信康への警戒心を解くことができず、噂にすぎぬ信康の乱心を理由にその義父でありながら信長は、信康の切腹を家康に要求しました(この時21歳)。
家康は断腸の思いで天下人信長の非常な命令に従い、最愛の子に切腹を言い渡しました。
その介錯を任ぜられたのが服部半蔵でした。が、いかに主君の命とはいえ、ついにその手を下すことができなかった半蔵は、このことから世の無常を感じ、また信康の冥福を祈るため仏門に入りました。
1590年(天正18年)家康は江戸に入り江戸城を築き、幕府を置くことになりました。半蔵も主君に随伴しましたが、信康の霊を弔うため剃髪し、名を西念と号し麹町清水谷に庵居を設け、遠州以来捧持していた信康の遺髪をそこに埋めて専称念仏の日々を送りました。
1593年(文禄2年)半蔵は家康より、信康の霊および徳川家忠魂の冥福を祈念するため、一宇建立の内命を受け、金500両を賜ったと記録されております。
しかし、寺院建立を果たさず、文禄4年11月14日、55歳で逝去しました。法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」。
その後、同所に一宇の建立がなりましたが、山号と寺号はこの法名からとり、「専称山安養院西念寺」となりました。
1634年(寛永11年)幕府の政策により、江戸城外堀の新設工事のため全ての寺院の移転が命じられ、現在地に移転しました。
1945年戦火で全焼失しましたが、昭和36年11月本堂を再建しました。(西念寺縁起より)


西念寺にある新宿区文化財

  • 服部半蔵の墓(新宿区指定史跡)
  • 徳川信康供養塔(新宿区指定史跡)
  • 服部半蔵の槍(新宿区登録有形文化財)

服部半蔵の墓(昭和59年7月6日指定)

服部半蔵(1542-96)は、本名を正成といい、徳川家康の三河以来の旧臣で、家康十六将の一人に数えられる武将である。
「鬼の半蔵」として知られ、元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、天正18年(1590)小田原攻めで功をあげ知行8000石を賜り、同年の家康の入城後は、江戸城西門近くに居を構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。
半蔵は、天正7年(1579)家康の長男信康が切腹する介錯役を命じられた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。
文禄2年(1593)には家康から寺院を建立するよう内命を受けたが、慶長元年」(1596)11月、55歳で没した。
西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永11年(1634)江戸城の外堀拡張・新設の際現在地に移転したものである。(新宿区教育委員会掲示より)

服部半蔵の槍(昭和63年3月4日登録)

「鬼の半蔵」の異名を持つ服部半蔵(1542-1596)が徳川家康より拝領したと伝えられる槍で、半蔵が開基となったこの西念寺本堂に現在も保存されている。 槍先と柄の一部が欠けており、現状では全長258cmである。 戦国時代の槍の標本として、また、同寺に伝存している点で貴重な歴史資料である。(新宿区教育委員会掲示より)


西念寺の周辺図

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