愛染院|新宿区若葉にある真言宗豊山派の寺院
愛染院の概要
新義真言宗の愛染院は、獨鈷山光明寺と号します。御府内八十八ヶ所霊場18番札所です。
| 山号 | 獨鈷山 |
|---|---|
| 院号 | 愛染院 |
| 寺号 | 光明寺 |
| 住所 | 新宿区若葉2-8-3 |
| 宗派 | 真言宗豊山派 |
| 本尊 | 大日如来像 |
| 葬儀・墓地 | - |
| 備考 | 御府内八十八ヶ所霊場18番札所 |
愛染院の縁起
愛染院の創建年代は不詳です。
文政寺社書上に拠れば「当時開闢之儀は人王52代嵯峨天皇御宇弘仁年中弘法大師関東弘法之為当国に一宇御建立今之麻布善福寺之地也然に当院は右奥之院にて御守本尊五指量愛染尊を安置し大日如来よりは祖相承の獨鈷を納め給故に山号を獨鈷山と申候。愛染尊は秘法にて不能住職之僧も拝其後星霜相移り年月相知れ不申候」と伝えて、その由来することの頗る古きを語て、慶長当時の開山正斎(寛永15年12月5日寂)はその中興と称して居る(昭和9年発行の四谷区史より)
愛染院にある新宿区指定文化財
- 高松喜六の墓(指定年月日昭和59年7月6日)
- 塙保己一の墓(指定年月日昭和59年11月2日)
高松喜六の墓
内藤新宿の生みの親高松喜六は、もとは喜兵衛といい浅草の名主であった。
喜六は、当時甲州街道の最初の宿場が日本橋を出発して四里余り(約16キロ)の高井戸であり、大変不便であったので、元禄10年(1679)同志4人とともに幕府に、内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出した。
翌年許可がおり、喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋・本陣を経営した。
正徳3年(1713)8月に没したが、高松家は代々内藤新宿の名主をつとめた。
墓石は高さ80センチで、右側面に「内藤新宿開発人高松金八友常と刻まれている。
塙保己一の墓
「群書類従」の編者として名高い江戸時代中期の国学者塙保己一は、延享3年(1746)現在の埼玉県児玉郡保木野村に生まれた。姓は萩野、幼名は辰之助といった。
5歳で病にかかり、7歳で失明したが、13歳のとき江戸に出て雨富検校須賀一の門下となり、その本姓塙をもらった。
優れた記憶力を認められ学問を許され、国学・漢学・和歌・医学などを学んだ。特に国学では賀茂真淵に学び、造詣を深めた。
天明3年(1783)検校となり、水戸藩の「大日本史」の校正なども手がけた。寛政5年(1793)には、和学講談所を開設し、幕府の援助も受け、書籍の収集と門人の指導にあたった。
文政2年(1819)群書類従を寛政させ、同4年(1821)には総検校となったが、同年9月「続群書類従」の編纂なかばで没した。享年76歳であった。
墓所は、最初近くの安楽寺に造られたが明治31年(1898)廃寺となり、愛染院に改葬された。墓石は高さ103センチである。
愛染院の周辺図
- 四谷三丁目駅から徒歩8分
- 四谷駅から徒歩9分
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