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本性寺|新宿区須賀町にある日蓮宗寺院

本性寺の概要

日蓮宗寺院の本性寺は、平等山と号します。三田佐兵衛(妙伝院日香居士)が開基、観智院日詠が開山となり、本性庵として創建しました。寛文10年に平等山本性寺と改号しています。境内には、江戸城本丸から移されたという北向毘沙門天堂が安置されています。

本性寺
本性寺の概要
山号 平等山
院号 -
寺号 本性寺
住所 新宿区須賀町13-3
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



本性寺の縁起

本性寺は、三田佐兵衛(妙伝院日香居士)が開基、観智院日詠が開山となり、本性庵として創建しました。寛文10年に平等山本性寺と改号しています。境内には、江戸城本丸から移されたという北向毘沙門天堂が安置されています。

須賀町13番地3(元四谷区南寺町42番地) 日蓮宗で元は下総平賀(常磐線北小金)本土寺の末である。 初めの開基は幕府旗本の士、もと三州三田の郷士、おそらく家康の幕士であった人で三田佐兵衛の祖が、家康に随って江戸に来り麹町9丁目辺りに居て、現地を隠居地としていた。その祖父の法号を妙伝院日香居士といったが、生前寛永18年辛巳、観智院日詠という帰依僧にその隠居地を譲ったので、日詠が日香居士歿後の菩提の為め、この地に本性庵を建てたのに始まる(一説には本性庵は麹町にあったという)。日詠は庵から寺に昇格したき心を抱いていたが、寛文10年庚戌に寺地改めがあったので、即ち所願を奉って寺地として拝領し、平等山本性寺とした。その坪数475坪古跡拝領地で史料も同坪数である。しかし本堂庫裡の造営は成らずして、日詠は延宝5年丁巳10月7日に遷化してしまった。
それ故、開山は日詠上人であるが、書上げには本堂庫裡が出来たのは二代目の円智院日成の代であると記している。
この寺に、北向毘沙門天堂がある。毘沙門天像は、江戸城本丸に在ったものだが、太田道灌時代から伝わるもので、城内に祀ってあったのだという。これは五代将軍綱吉公の側室、春慶院殿の発願により尊像と共に、堂も本寺へ寄付されたもので、総欅造り間口3間、奥行7間の釘は一切使わず、切組造り手斧(ちょうな)削りで建立されている(一部後に改造される)。山門も同様で、門は290年前(延宝の頃、将軍綱吉の頃)、堂は220年前(寛延頃、9代家重将軍の頃)のものであるという。
寅の日の御縁日には開扉され毎月18日にも開扉されている。
なぜ江戸城に安置されていたかというに、尊像は太田道灌時代から在ったものという点もあるが、徳川時代、外様の大藩である仙台六十二万石の伊達侯が北方に在るため、謀叛を起こさないように、祈祷のため毘沙門天を北向に安置したものだという。だが毘沙門天は国土の四方を守る神、四天王の一で北方を司り、多聞天が本名というのも可笑しいが、富貴栄録を祈願する神であって、又武神の神として古来より崇敬され、特に北向きにするという謂われは可笑しく、北向きが正当なのである。(四谷南寺町界隈より)


本性寺所蔵の文化財

  • 萩原宗固の墓(新宿区登録史跡)

萩原宗固の墓

江戸時代中期の国学者・歌人は萩原宗固(1703-84)の墓地。平成6年に改葬整備され、宗固の養父母の墓石が並べて建てられている。
宗固は市ヶ谷本村町の生まれ。享保から天明(1716-1780年代)に国学者・歌人として活躍し、門人として国学者で「群書類従」を編纂した塙保己一や老中として寛政の改革を断行した白河藩主松平定信など著名な人物を養成した。
特に塙保己一(1746-1821)は、「群書類従」の編纂に宗固の蔵書等を参考にするなど大きな影響を受けたという。
宗固は四谷左門町・荒木町に居住するなど、新宿とのつながりの深い学者である。(新宿区指定文化財)


本性寺の周辺図


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