諏訪神社|新宿区高田馬場の神社

猫の足あとによる東京都寺社案内

諏訪神社|小野篁再造、射的場上覧の際に明治天皇休息所

諏訪神社の概要

諏訪神社は、新宿区高田馬場にある神社です。諏訪神社の創建年代は不詳ですが、従三位左大瓣小野篁が弘仁年間(810-824)に再造したと伝えられ、その後も源頼義父子や源頼朝、太田道灌等が再造したといいます。江戸時代には、諏訪村、戸塚村、大久保百人町、西大久保村等周辺の鎮守社となっていたといい、明治時代には際明治天皇が高田馬場の射的場を上覧した際には休息所にあてられていたといいます。

諏訪神社の概要
社号 諏訪神社
祭神 武御名方神
相殿 大国主神、事代主神
境内社 御嶽神社、稲荷社
住所 新宿区高田馬場1-12-6
祭日 例大祭9月27日
備考 -



諏訪神社の由緒

諏訪神社の創建年代は不詳ですが、従三位左大瓣小野篁が弘仁年間(810-824)に再造したと伝えられ、その後も源頼義父子や源頼朝、太田道灌等が再造したといいます。江戸時代には、諏訪村、戸塚村、大久保百人町、西大久保村等周辺の鎮守社となっていたといい、明治時代には際明治天皇が高田馬場の射的場を上覧した際には休息所にあてられていたといいます。

境内掲示による諏訪神社の由緒

鎮座ノ儀ハ弘仁年中従三位左大瓣小野篁朝臣祭祀ト言承和年中真雅僧正再営ト言。永承年中源頼義父子奥羽征伐ノ時祈願有テ凱陣ノ節武器ヲ納ム。人皇八十二代後鳥羽院御宇文治五年春源二位頼朝郷奥州発向ノ時祈願有テ凱陣ノ後社殿造営ス。応仁三年春太田持資再営ト言。寛永年中将軍家光公再営ス。明和年中将軍家治公鷹狩ノ節御成之当社ノ神ヲ御城庭ヘ遷座ノ上意ニ付紅葉山吹上両御庭ヘ遷祭ス。天保十三年松平出羽守ノ依頼ニ依テ赤坂邸内ヘ遷祭ス。明治十五年諏訪森近衛射的場出来同年十一月射的砲術天覧シテ明治天皇御幸ノ節当社ヘ神酒鴨ヲ被献。明治四十年当社修繕ノ際近衛各卿隊ヨリ金品ヲ寄附セラル。同年五月幣帛供進神社ニ列セラル。(境内掲示より)

東京都神社名鑑による諏訪神社の由緒

創建は弘仁年中(八一〇-二四)小野篁朝臣が大国主命・事代主命を祭祀すといわれ、当時は松原神社と称した。文治五年(一一八九)源頼朝公が藤原泰衡討伐のため、陸奥発向のみぎり、当社に祈願あり、凱陣の後に社殿を造営された。応仁三年(一四六九)春、太田持資社殿を再営したが、元亀年中(一五七〇-三)北条早雲のため焼失した。その後、江戸時代初期、徳川義直公信濃の諏訪神を勧請合祀し、諏訪神社と改称した。また、後水尾天皇当社に御神体を奉納せらる。明治十五年、明治天皇の行幸あり、御聖蹟の指定を受けた。その後、各宮家の御参拝を受けた。(東京都神社名鑑より)

新編武蔵風土記稿による諏訪神社の由緒

(諏訪村)諏訪社
八幡、弁天、天満宮、不動、薬師、観音を相殿とす。当村及戸塚村、大久保百人町、西大久保村等の鎮守なり。例祭九月廿七日、縁起は付会の説なれば略す。
末社。
上諏訪、下諏訪。
神楽殿。(新編武蔵風土記稿より)


諏訪神社所蔵の文化財

  • 塞神三柱の塔(新宿区登録有形民俗文化財)
  • 明治天皇射的砲術天覧所阯(東京都指定史跡)

塞神三柱の塔

天和二年(1682)に造立された舟形の石塔で、中央に「塞神三柱」、その右側に「諏訪上下大明神」および「正八幡大菩薩」、また左側には「天(以下欠損のため不明)」および「稲荷大明神」と刻まれている。
また、その上方には右に月形、左に日形が彫られている。
塞神は、村の境や峠に祀られる、境界を守護する神とされ、石塔としては江戸時代に南関東地方を中心に盛んに造立された。
諏訪神社の塞神塔は区内で唯一のもので、また、「塞神三柱」の文字が刻まれた例は少なく、大変貴重である。(新宿区教育委員会掲示より)

明治天皇射的砲術天覧所阯

明治十五年、諏訪の森近衛射的場が神社前に出来ました時、明治天皇の行幸があり、当社境内よりその射撃演習を御覧になられました。その折、畏くも天皇より神酒、鴨を賜り、氏子の歓喜、感激は大変なものでした。その後、御社殿の屋根には菊の御紋を付ける様になり、又射的場にみえられる各宮殿下には、皆当社の社殿にて御休息遊ばされました。
只今社殿に掲げてある神号額も小松宮彰仁親王殿下の御真筆であります。昭和十八年には当天覧所阯は東京都より行幸史跡に指定されました。(境内掲示より)


諏訪神社の周辺図