市谷亀ヶ岡八幡神社|新宿区市谷八幡町の神社

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市谷亀ヶ岡八幡神社|江戸城西方の守護神として勧請

市谷亀ヶ岡八幡神社の概要

市谷亀ヶ岡八幡神社は、新宿区市谷八幡町にある八幡神社です。市谷亀ヶ岡八幡神社は、太田道灌が文明11年(1479年)に、市谷御門内に鶴岡八幡宮の分霊を、江戸城西方の守護神として勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称したといいます。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座したといいます。明治5年に郷社に列格しました。

亀ヶ岡八幡神社
亀ヶ岡八幡神社の概要
社号 亀ヶ岡八幡神社
祭神 誉田別命、気長足姫尊、輿登比売神
相殿 -
境内社 茶の木稲荷神社、出世稲荷神社、金刀比羅社
住所 新宿区市谷八幡町15
祭日 -
備考 もと郷社



市谷亀ヶ岡八幡神社の由緒

市谷亀ヶ岡八幡神社は、太田道灌が文明11年(1479年)に、江戸城西方の守護神として鶴岡八幡宮の分霊を勧請、鶴岡八幡宮の「鶴」に対して、亀岡八幡宮と称したといいます。江戸城外濠が完成の後、茶の木稲荷のあった当地に遷座したといいます。明治5年に郷社に列格しました。

「牛込區史」による市谷亀ヶ岡八幡神社の由緒

文明年中(『東京通誌』には文明十一年とある)太田道灌が江戸城を築いた時、それを守護する目的で社殿を建立し、相州鶴岡八幡宮を勸請し、山林、神田を寄進した(別営東圓寺)。後天正年中兵燹に罹って破壊したので、慶長年中別當源空が再興した。別に頼朝鶴岡八幡造營の時の餘材を以て、淺草の大エ(『吾妻鑑』に云ふ、「三日(治承五年七月)若宮營作事、有其沙汰。而於鎌倉中無可然之エ匠。仍可召進武蔵國淺草大工字卿司之旨被下御書於彼所沙汰人等中。)が建造したとか、北氏某が多田満仲の守護神である八幡を享保頃奉納した爲め、多田満仲守護紳といふとか、舊地は市谷門内にあり、寛永年中今の地に遷したとか、色々の傳説がある。本祉の主祭神は應神天皇で、東には紳功皇后、西には妃大神が鎮座まします。江戸時代の隆盛は主として、元禄年中、桂昌院が歸依して、多くの寄準をしたのに因ると考へられてゐる。(「牛込區史」より)

市谷亀ヶ岡八幡神社所蔵の文化財

  • 市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居(区指定有形文化財)
  • 市谷亀ヶ岡八幡宮の軍配団扇(区指定有形文化財)
  • 市谷亀ヶ岡八幡宮の力石(区指定有形文化財)

市谷亀ヶ岡八幡宮の銅鳥居

文化元年(1804)12月建立の銅製明神型鳥居で、高さ4.6メートル、台石0.55メートル、柱には、初願者・当八幡宮別当第七世智光、造立者・東円寺現住仁龍他七名、鋳物師・西村和泉藤原政平の建造銘と、寄進者442名の名前や職業が陰刻されている。
「八幡宮」の額は、播磨姫路十五万石の酒井家十一代当主雅楽頭忠道の書によるもので、八の字は八幡宮の神使の鳩一対によって形成されている。
区内に現存する唯一の銅製鳥居で、意匠や鋳造技術にも優れており貴重である。(新宿区教育委員会掲示より)

市谷亀ヶ岡八幡宮の軍配団扇

御府内備考続編之七目録(神社部・市谷八幡宮)には「団扇一本右者太田道灌所持之品図左之通」とあり、左に軍配団扇の図が記してある。当八幡宮には右記のものとして伝えられる軍配団扇が現在も保存されている。
木製の柄に竹を編み、間に紙を挟み、表面には黒紫色で漆を塗って仕上げてあるが、文様、文字はない。
製作年代は未詳であるが、太田道灌ゆかりの軍配団扇として伝えられており、貴重である。(新宿区教育委員会掲示より)

市谷亀ヶ岡八幡宮の力石

力石は、祭礼の時などに村人が力くらべをし、その石を奉納したものである。
市谷亀ヶ岡八幡宮の力石は、合計七個が保存されている。
卵形の自然石に、石の重さと、奉納した者あるいは持上げた者の名が刻まれており、うち三個には奉納された年も刻まれている。
年代のわかるものでは、寛政6年(1794)を最古とし、その他も江戸時代後半のものと考えられる。
数量的にもまとまっており、当時の祭や娯楽を知る上で貴重な民俗資料である。(新宿区教育委員会掲示より)


市谷亀ヶ岡八幡神社の周辺図