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旗岡八幡神社|品川区旗の台の神社

旗岡八幡神社の概要

旗岡八幡神社は、品川区旗の台にある八幡神社です。旗岡八幡神社は、源頼信を祖先に持つ当地領主荏原氏の守り本尊であった八幡神を起源とします。荏原義宗が日蓮聖人を崇敬し、子息を出家させ、屋敷を捨てて法蓮寺・八幡社(当社)を創建したと、新編武蔵風土記稿にあります。源氏ゆかりの神社として、江戸時代は崇敬を集め、弓術師範門下等による競射が行われ、扁額や多くの絵馬が残され、品川区の有形文化財に指定されています。

旗岡八幡神社
旗岡八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別命(応神天皇)、比売大神、神功皇后
相殿 -
境内社 -
住所 品川区旗の台3-6-12
備考 -



旗岡八幡神社の由緒

旗岡八幡神社は、源頼信を祖先に持つ当地領主荏原氏の守り本尊であった八幡神を起源とします。荏原義宗が日蓮聖人を崇敬し、子息を出家させ、屋敷を捨てて法蓮寺・八幡社(当社)を創建したと、新編武蔵風土記稿にあります。

「品川区の文化財」による旗岡八幡神社の由緒

社伝に依れば、長元2年甲斐守源頼信公が鎮守将軍となり、勅令によって、千葉勺平忠常を追討の途中、府中を経て中延の丘上に一夜陣を置いた。翌朝此丘にて旗上げをした為に以来旗ケ岡と名付ける様になったといわれている。
時に寛仁年間頼信公が霊夢に依って御感得になったかぶと守りの本尊を比の台地に奉祀したのが始まりである。(旧天祖社という)其後文永年中時の領主荏原左衛門義家が右霊神を勧請して本社を創建する。
以後源家にゆかりある武将の崇敬深く、江戸時代に入っても徳川家をはじめ武門の信仰厚く、五代将軍網吉公の守刀を奉納される程であった。
又一流弓術師範門下等は神前に祈誓して競射を行なったことは、額殿に掲げてある多くの扁額をみればわかるのである。
文化年間には大奥の信仰厚く、戦災に失った旧社殿はその女中衆の浄財になったことは、その床柱の刻名によって知れるのである。又氏子達によるお歩射(甘酒祭り)も江戸中期以後から行なわれてきたと思われる。(「品川区の文化財」より)

新編武蔵風土記稿による旗岡八幡神社の由緒

(中延村)八幡社
除地2368坪、村の巽の方にあり。社伝に云。神体は長元3年源頼信感得の像にて、それより頼義家に傳へ、其庶流荏原義宗に傳はりしに、文永年中霊夢の告を得て日蓮上人を請して当社を勧請すと。本社3間に2間、拝殿5間に3間、拝殿と表門との中間に鳥居立り。
妙見堂。境内にあり、2間に9尺。
毘沙門堂。3間に2間。瘡守稲荷を配祀す。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による旗岡八幡神社の由緒

旗岡八幡神社由緒
御祭神 応神天皇、比売大神、神功皇后
当神社は長元3年(1030年)平忠常の乱を平定すべく、朝命を奉じた甲斐守・源頼信公が下総へ赴く際この地に宿営した祈、霊威を感得して源氏の氏神たる八幡大神を奉斎し戦勝を祈願したのがその発祥とされています。
高台に陣を布き、源氏の白旗を立て大いに武威を誇ったことから、この地が「旗岡」あるいは「旗の台」と呼ばれたのです。
鎌倉時代中期に荏原左街門尉義宗公が当地の領主となり、鎮守としての御神徳の発揚に努めたことが当神社発展の基礎となりました。
江戸時代には、徳川家を始め武家の崇敬篤く、毎年2月15日には各地から集まった武士達により弓の競射が行われていました。
当神社は創建以来千年近い歴史を歩んでまいりましたが、時移り時代が変っても常に氏子崇敬者の心の拠り所として親しまれ敬われて今日に至っております。(境内掲示より)


旗岡八幡神社所蔵の文化財

  • 旗岡八幡神社大絵馬(品川区指定文化財)

旗岡八幡神社大絵馬

絵馬殿に懸けられていた縦1.46m横1.78mの庵形の大絵馬である。
元治元年(1864)に中延村の竹屋(野村)書治郎が奉納したもので、欅の板四枚を横に会わせ、周囲を同じ欅材で縁取っている。
白木の生地に猿駒止の図柄を彩色で画面一杯に描いている。
この絵は右下の落款によって、今治(愛媛県)出身の画家、沖冠岳(1817-1876)の作品であることがわかる。沖冠岳は、京都で岸派に学んだ後、江戸に移住し、谷文晁等と交流し、画風の幅を広げている。
江戸期の大絵馬の現存例は、本区並びに周辺地区では少なく、民間信仰の様相を示す資料として貴重である。
大絵馬は現在、ケースに収められ、社務所内に展示されている。

旗岡八幡神社の周辺図


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