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上神明天祖神社|品川区二葉の神社、上蛇窪村鎮守、荏原七福神

上神明天祖神社の概要

上神明天祖神社は、品川区二葉にある天祖神社です。上神明天祖神社は、元享2年の旱魃時の雨乞祈願による降雨を感謝し、蛇窪村の鎮守として創建されたと伝えられます。江戸期に入り、蛇窪村は上蛇窪村と下蛇窪村は分村しましたが、当社は上蛇窪村の鎮守となり、下蛇窪村には下神明天祖神社が創建されました。明治期には、村社に列格しています。荏原七福神の弁財天です。

上神明天祖神社
上神明天祖神社の概要
社号 天祖神社
祭神 天照大御神、応神天皇、天児屋根命
相殿 -
境内社 稲荷社、弁天社
祭日 例祭日9月中旬、縁日9月16日
住所 品川区二葉4-4-12
備考 上蛇窪村鎮守、荏原七福神の弁財天



上神明天祖神社の由緒

上神明天祖神社は、文永8年(1272)以降、当地蛇窪村を開拓した北条四朗左近太夫陸奥守重時五男の時千代(後に厳正寺開山初世法円上人)の家臣が、元享2年の旱魃時の雨乞祈願による降雨を感謝し、蛇窪村の鎮守として創建されたと伝えられます。江戸期に入り、蛇窪村は上蛇窪村と下蛇窪村は分村しましたが、当社は上蛇窪村の鎮守となり、下蛇窪村には下神明天祖神社が創建されました。明治期には、村社に列格しています。

境内掲示による上神明天祖神社の由緒

文永8年(1272)11月10日北条四朗左近太夫陸奥守重時は、五男の時千代に多数の家臣を与え蛇窪(当地付近)に残って当地地域を開くように諭して、自らはこの地を去りました。
時千代は、後に法円上人と称して大森に厳正寺を開山し、家臣たちの多くは蛇窪付近に居住しました。
現在でも厳正寺の檀徒がこの地域に多いのは、こうした理由からです。
文永8年の秋から50年ほど経て、元享2年武蔵一帯が大旱魃となり、飢饉の到来は必死と見られました。このとき厳正寺の当主、法円の甥の第2世法密上人は、この危機を救うため、厳正寺の戌亥の方向(北西)にあたる森林の古池のほとりにある龍神社に雨乞いの断食祈願をしました。上人の赤誠と神霊の冥助により、大雨が沛然とと降り注ぎ、ついに大危機を免れることができました。
これに感激した時千代の旧家臣たちは、蛇窪に神社を勧請し、神恩にこたえてまつりました。
これが、現在の天祖神社の縁起とされています。
一説には、鎌倉幕府時代に、この地の豪農森屋氏が建立したものとも伝えられています。
下神明天祖神社との関係は当初同一村同一神社でしたが、正保年間(1644)今から363年前に下神明が上神明から分立したためです。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による上神明天祖神社の由緒

神明社
除地2段2畝、村西の方にあり。社2間に2間半。村の鎮守なり。勧請の年暦を詳かにせず。馬込村長遠寺の持。
末社。
稲荷社。本社の側にあり。(新編武蔵風土記稿より)

「品川区の文化財」による境内社稲荷社の由緒

旧上蛇窪村の鎮守である。文永8年11月10日、北条四郎左近太夫陸奥守重時が関東下向の時、五男時千代に多くの家臣をつけて此地に残した。時千代は後に法円上人と称して、大森厳正寺の開山となる。その家臣連の多くは蛇窪辺りに居住した。現在当地の在住者で厳正寺の檀徒の多いのはこれによるものである。その後五十年程後、元享2年武蔵一帯が大旱魃となった時に、厳正寺二世法密上人が之をみるにしのびず、大慈悲をおこし、同寺の戌亥に当る森林中の古池に祀られていた竜神社に雨乞の絶食祈願をこめた処、大雨沛然として降りだし、危機を脱することができた。之に感謝した時千代の家臣遠が此処に勧請して神恩にこたえたのが当社であると伝えている。(「品川区の文化財」より)


上神明天祖神社の周辺図


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