長泉寺|渋谷区神宮前にある曹洞宗系単立の寺院
長泉寺の概要
曹洞宗系単立寺院の長泉寺は、慈雲山と号します。長泉寺は、かつて隠田に古刹寺院があり、観音堂のみ残っていたところ、上渋谷村の名主田左膳義直が、観音堂の本尊を自宅に遷し草庵として天文15年に僧春的を招聘、文禄元年には青松寺七世瑞翁(慶長9年寂)がこの草庵を譲受、慈雲山長泉寺と号し開山したといいます。
| 山号 | 慈雲山 |
|---|---|
| 院号 | - |
| 寺号 | 長泉寺 |
| 住所 | 渋谷区神宮前6-25-12 |
| 本尊 | 釈迦如来像 |
| 宗派 | 曹洞宗系単立 |
| 葬儀・墓地 | - |
| 備考 | - |
長泉寺の縁起
長泉寺は、かつて隠田に古刹寺院があり、観音堂のみ残っていたところ、上渋谷村の名主田左膳義直が、観音堂の本尊を自宅に遷し草庵として天文15年に僧春的を招聘、文禄元年には青松寺七世瑞翁(慶長9年寂)がこの草庵を譲受、慈雲山長泉寺と号し開山したといいます。
新編武蔵風土記稿による長泉寺の縁起
(上渋谷村)長泉寺
禅宗曹洞派慈雲山と号す、江戸愛宕青松寺の末、相傳ふ、往昔穏田村の内堂免と唱る邊に古刹あり、文治年中の創建なりしか荒廃して宗門寺號をも傳へず、其地に観音堂のみ存せり、今當村の名主長吉が先祖、田中左膳義直、大永年中彼堂の本尊を宅地に遷して、草堂を営み、天文十五年僧春的を置て守らしむ、其後文禄元年青松寺七世瑞翁譲受、今の山寺號を唱へて法地とし、則当所に隠居す、慶長九年七月二十九日化す、故に此僧を始祖とす。年経て後堂宇壊弊して殆廃寺となりしを青松寺十四世不中、衣資を捨て舊観に復す、故に是を中興第二祖とす、寛永十三年秋大猶院殿御放鷹の時成らせられ観音縁起を聞しめされ、地域の貢を除賜ふ、本尊釈迦を置。
観音堂。前に云へる正観音木像長一尺三寸、人肌正観音と號す、藝州藩士藤村弥一右衛門満茂か宝永丙戌の記に曰、人肌観音は定朝の作、通身常に温なること人膚の如し、故に此號あり、相傳ふ渋谷金王丸の渇仰して出入常に懐にせし所なり、金王丸は川崎土佐守基家か胤子なり、
基家軍功の賞として此地を領せし時、巨刹を剏建す、時に康平六年なり、金王丸に至て此観音を安す。久壽二年田子先生義賢追討の時、金王丸も出張して大蔵の館を囲み攻て小山田次郎を殺す、夜に至て先生襲来り、事急に出つ、観音精兵の姿に現して城兵を退く、金王丸其像を開扉し、遍體汗流を見て其奇特を知る、遥の後北條氏綱起て上杉朝興と矛盾の時、大永四年正月十三日堂塔以下兵火に懸る、只像依然として餘焔の中に存す、村民奉し帰て梁上に秘し置しに、其後毎夜震動し、梁間に光を放つ、因て恐で別に小堂を造て安置す、其後地を賜はりて結搆し、遂に長泉寺境内に属す、偶藝州の別業隣れるを以て祈誓して清泉を穿ち得しかは、太守の頃今の隠田村にありし時、瀧の側にありしより此唱ありと云、
観音堂。千手観音にて、長七尺銅の立像を安す。
稲荷社。元弁天の社跡なりと云。
鐘楼。貞享三年鋳造の鐘をかく。(新編武蔵風土記稿より)
長泉寺所蔵の文化財
- 石仏群
石仏群
墓地の奥には、二百数十体の石仏が並んでいます。
大部分は地蔵ですが、そのほかに聖観音をはじめ各種の観音像などが見られます。いずれも民間で作られたと思われる素朴な石仏で、かつてこの付近に建てられてあったものが宅地造成などの折に、ここへ集められてきたということです。
石仏に彫り込まれた年号から、このあたりにはかなり古くから地蔵信仰や観音信仰があって、村びとたちのあいだで講(グループ)が作られていたことがわかります。l講では特定の日に持ち回りで家に集まり、仕事を休んで念仏をとなえたり、酒食を提供して語りあったり、子供に菓子を与えたりして過ごしました。楽しみの少なかった当時の村では貴重な娯楽のひとつでした。(渋谷区教育委員会掲示より)
長泉寺の周辺図
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長泉寺山門
長泉寺石仏

