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瑞泉山祥雲寺|渋谷区広尾にある臨済宗大徳寺派寺院

祥雲寺の概要

臨済宗大徳寺派寺院の祥雲寺は、瑞泉山と号します。祥雲寺は、福岡藩主黒田長政(元和9年没)を追善して、嫡子忠之(承応3年没、法名興雲院殿)が開基となり、長政が帰依していた京都紫野大徳寺の龍岳和尚を開山として赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺と称して創建、寛文6年(1666)に麻布台へ移転の上瑞泉山祥雲寺と改称、寛文8年(1668)の江戸大火により当地へ移転したといいます。江戸期には塔頭6ヵ寺を擁していた他、臨済宗大徳寺派触頭として御府内にある臨済宗大徳寺派寺院をまとめていたといい、福岡藩黒田家の他、秋月藩主黒田家・久留米藩主有馬家・吹上藩主有馬家・柳本藩主織田家・岡部藩主安倍池・小野藩主一柳家・狭山藩主北条家・園部藩主小出家など諸大名の江戸菩提寺となっていました。

祥雲寺
祥雲寺の概要
山号 瑞泉山
院号 -
寺号 祥雲寺
住所 渋谷区広尾5-1-21
本尊 釈迦如来
宗派 臨済宗大徳寺派
葬儀・墓地 -
備考 臨済宗大徳寺派触頭



祥雲寺の縁起

祥雲寺は、福岡藩主黒田長政(元和9年没)を追善して、嫡子忠之(承応3年没、法名興雲院殿)が開基となり、長政が帰依していた京都紫野大徳寺の龍岳和尚を開山として赤坂溜池の自邸内に龍谷山興雲寺と称して創建、寛文6年(1666)に麻布台へ移転の上瑞泉山祥雲寺と改称、寛文8年(1668)の江戸大火により当地へ移転したといいます。江戸期には塔頭6ヵ寺を擁していた他、臨済宗大徳寺派の触頭として御府内にある臨済宗大徳寺派寺院をまとめていたといいます。開山の龍岳和尚は、本山大徳寺164世で、笠仙大法禅師と後水尾帝より勅賜された名僧です。

御府内寺社備考による祥雲寺の縁起

京都紫野大徳寺末 渋谷
瑞泉山祥雲寺、境内八千二百十七坪内拝領地五千四百六十坪持添年貢地二千七百五十七坪
起立之儀当寺開基黒田筑前守忠之法号高樹院殿前拾遺補関筑州都督傑春英大居士承応三甲午年二月十三日卒、黒田筑前守長政法号興雲院殿前大中右夫筑前都督古心道卜大居士元和九癸亥年八月四日卒、先考為菩提寺於溜池屋敷内忠之一寺建立附号龍谷山興雲寺。其後寛永六己巳年八月日相分不申候於麻布台新地拝領再興改号瑞泉山祥雲寺。寛文八戊申年類焼仕候月日相分不申候、其後御用地被召上、同年替地被仰付当時之地所拝領仕候、月日相分不申候。麻布臺當地之儀 被召上候後相分不申候。
開山龍岳和尚石州之人也亦紫野玉林院開山月岑和尚之嗣法也黒田長政五世中開山ニ厚〇〇之法冶等御座候由仍而忠之於溜池屋敷内追善 一時建立為開山元和七辛酉年十月四日出生寛永三丙寅年三月五日。
後水尾帝勅特賜笠仙大法禅師寛永五戌辰年十一月廿八日寂(御府内寺社備考より)

江戸名所図会による祥雲寺の縁起

瑞泉山祥雲寺
廣尾町にあり、北條家所領役帳に奥津加賀守櫻田の内平尾の地を領するとあり、ここも櫻田に属せりしと覚えけり。花洛大徳寺派の禅刹ゆしき本尊に釋尊を安置開山は龍岳太和尚章開基ハ松平筑前守長政なり、祥雲ハ則ち其法号之。支院八宇阿り。昔ハ赤坂の藩邸にありしか麻布谷町の上の方へうつし竟に明暦四年今の地に引とぞ。(江戸名所図会より)


祥雲寺所蔵の文化財

  • 黒田長政の墓(渋谷区指定史跡)
  • 大名墓地群(渋谷区史跡)
  • 曲直瀬流一門医師の墓
  • 文化人の墓
  • 鼠塚
  • 岡本玄冶墓(東京都指定旧跡)

黒田長政の墓

豊臣秀吉・徳川家康の天下統一に貢献した、黒田長政(福岡藩五十二万余石初代藩主)は、京都嵯峨野大徳寺の竜岳和尚に深く帰依していました。元和九年(1623)に長政が没すると嫡子忠之は、竜岳を開山として祥雲寺を建立しました。
この黒田長政の墓は、墓標形として建てられた雄大なもので、墓地の右手奥にあります。(渋谷区教育委員会掲示より)

大名墓地群

この祥雲寺の檀家には武家が多かったため、福岡藩主黒田家をはじめとして福岡藩の分家秋月藩主黒田家・久留米藩主有馬家・吹上藩主有馬家・柳本藩主織田家・岡部藩主安倍池・小野藩主一柳家・狭山藩主北条家・園部藩主小出家など諸大名の墓地群があります。(渋谷区教育委員会掲示より)

曲直瀬流一門医師の墓

墓地のほぼ中央に日本の医術を最高の水準まで導き、世界で最初といわれるカルテを残した曲直瀬玄朔と一門の墓が並んでいます。(渋谷区教育委員会掲示より)

文化人の墓

墓地の中ほどの左手に、室生流家元代々の墓があり、その向かい側に、まんじゅう型笠付きの常盤津節の開祖常盤津文字太夫の墓があります。(渋谷区教育委員会掲示より)

鼠塚

墓地入口の右手に見える大きな石碑は、明治三十二年(1899)から数年間ペストが流行したとき、予防のために殺された鼠の霊を供養して明治三十五年に建てられた珍しい動物慰霊碑です。(渋谷区教育委員会掲示より)

岡本玄冶墓

岡本玄冶は、江戸時代初期の医家。初名は宗什、のち諸品と改める。玄冶は通称。天正十五年(1587)京都に生まれた。十六歳の時曲直瀬玄朔の門に入って医学を学び、玄朔門下第一の高弟と称された。慶長年間(1596-1615)伏見城で徳川家康に拝謁し、元和四年(1618)法眼に叙せられ、同九年将軍秀忠に召されてその侍医となり、たびたびその病用に侍して効を収めた。寛永五年(1628)法印に叙せられ、啓通院の称号を賜った。同十年・十四年には将軍家光の病を直し、千石の領地を得るにいたる。常に京都と江戸を往復し、元和九年(1623)日本橋人形町に邸に屋敷を拝領した。幕末の嘉永六年(1853)に大当たりをとった歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛」の舞台「源氏店」で有名になった玄冶店の起こりをなした。正保二年(1645)四月二十日五十九歳で死去。著書に「燈火集」「玄冶配剤口解」「玄冶方考」「通俗医海腰舟」「傷寒衆方企矩」などがある。(東京都教育委員会掲示より)

祥雲寺の周辺図



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