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吸江寺|渋谷区東にある臨済宗妙心寺派寺院

吸江寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の吸江寺は、普光山と号します。吸江寺は、板倉周防守重宗の室(法名玉樹院寶林清月、寛文8年1668年寂)が石潭良全(延宝8年1680年寂)に私淑、麻布櫻田町にあった臥雲庵と號する草庵跡を購入して慶安3年(1650)に創建、宝永3年(1706)当地へ移転したといいます。

吸江寺
吸江寺の概要
山号 普光山
院号 -
寺号 吸江寺
住所 渋谷区東4-10-33
本尊 観音如来像
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



吸江寺の縁起

吸江寺は、板倉周防守重宗の室(法名玉樹院寶林清月、寛文8年1668年寂)が石潭良全(延宝8年1680年寂)に私淑、麻布櫻田町にあった臥雲庵と號する草庵跡を購入して慶安3年(1650)に創建、宝永3年(1706)当地へ移転したといいます。

新編武蔵風土記稿による吸江寺の縁起

(下渋谷村)吸江寺
禅宗臨済京妙心寺末普光山と號す、寺傳及二世中興神州良祇の記せし開山行状の略に、始祖石潭良全は豊後国大友氏の臣福井氏の子なり、一絲和尚に参学す、後年當国に来り麻布櫻田町に寓居す、其頃板倉周防守重宗の室石潭の道徳を信し、一梵字を建んとて地を求めしに、同所の内に、寛永の初或道人住して臥雲庵と號する草庵の跡ありしを得て慶安三年其地に一宇を創建して、今の寺山號を銘し、石潭を住せしむ、當村へ移りしは寶永三年村民の寄附地を引地せしと云、又櫻田町名主の記には寶永七年の起立にて、元禄十四年六月引替地の願を命ぜられしと見ゆ、寶永七年は前の草庵起立なるへし、石潭は延宝八年六月二十三日寂、開基重宗室、寛文八年八月十日卒す、玉樹院寶林清月と謚す、中興開基は板倉伊予守重形なり、法名大圓院機外源用貞享三年七月二十六日卒す、本尊観音、木の座像、長一尺二寸春日の作と云。
彦山権現社。稲荷を相殿とす、開山は豊前国彦山にて元和七年誕生せし人なれば、産神なるを以てここに祀りしなるへし。
鐘楼。鐘は宝暦十年鋳造の功を剏め、明和六年落成の銘を彫れり。(新編武蔵風土記稿より)

「渋谷区史」による吸江寺の縁起

吸江寺(若木町八番地)
臨済宗、山号を普光山という。はじめ正保年間、豊後の僧良金石潭、江戸桜田に草菴を営んでいたが、板倉重宗の妻戸田氏、深くこれに帰依し、慶安三年、嘗て寛永年間道人卓庵というものゝ住した臥雲庵の廃址に一寺を建てゝ、開山たらしめたのが吸江寺である。「新編武蔵風土記稿」にもこの説を載せ、別に「桜田町名主の記」には、「寶永七年の起立にて、元禄十四年六月引替地の願を命ぜられしと見ゆ、寶永七年は前の草菴の起立なるべし」との異説をも記している。今は寺伝に従っておく。二世良祇神洲の時、重宗の子重形の助成を得て、寶永三年下澁谷村に移った。即ち現在の場所である。妙心寺末。本尊は観音、境内二千八百余坪、鎮守英彦山大権現社と、明和六年在銘の鐘を掲げた鐘楼とがあつたが、既に失われて、終戦までの鐘楼及び鐘も、大正十三年五月の新造であつた。また地蔵尊があり。子育地蔵と呼ばれている。(「渋谷区史」より)


吸江寺所蔵の文化財

  • 木造観音菩薩坐像及び達磨大師坐像・伽藍神倚像(渋谷区指定文化財)

吸江寺の周辺図