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教学院|世田谷区太子堂にある天台宗の寺院、江戸五色不動の目青不動

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教学院の概要

天台宗の教学院は、竹園山最勝寺と号します。慶長9年(1604)玄応大和尚が創建、明治41年に青山より当地へ移転しました。江戸五色不動の目青不動を閻王殿に祀っており、関東三十六不動16番札所となっています。

教学院
教学院の概要
山号 竹園山
院号 教学院
寺号 最勝寺
本尊 阿弥陀如来
住所 世田谷区太子堂4-15-1
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 江戸五色不動の目青不動、関東三十六不動16番



教学院の縁起

教学院は、慶長9年(1604)玄応大和尚が江戸城内紅葉山に創建、後赤坂三分坂、継いで青山南町4丁目へ移転しました。貞享4年(1687)には相州小田原城主大久保加賀守の菩提寺となっています。明治維新後、廃寺となった観行寺から江戸五色不動の目青不動を移したことから、青山のお閻魔さまとも称されました。当地へは明治41年に移転しています。

せたがや社寺と史跡による教学院の縁起

教学院は竹園山教学院最勝寺という。慶長9年(1604)玄応大和尚の開基になり江戸城内紅葉山にあったが、後赤坂三分坂に移転した。更に寛永8年(1631)、第5世法印岸能大和尚のとき青山南町4丁目に移ったが、延享年間と宝暦年問の2度の火災で古記録を失い、その間の詳しいことは明らかではない。
元禄年間までは、麹町山王成琳寺の末寺であったが、貞享4年(1687)旧相州小田原の城主大久保加賀守の菩提寺となって寺運隆盛となり、東叡山輪王寺の直末寺となった。後に大寺の格式となり、比叡山延暦寺の末寺となった。
明治41年、第17世権僧正寛葆大和尚の代に、太子堂町の現在地に移転した。
本堂に恵心僧都作の阿弥陀如来と聖徳太子の作といわれる聖観音像を安置している。
別堂には不動明王像を安置してあり、これが目青不動尊である。これは目黒不動、目白不動、目赤不動、目黄不動と共に江戸五色不動の一つとして有名である。この像はもと麻布の観行寺の本尊であったが、同寺が廃寺となったので、明治15年青山南町4丁目にあった教学院に移され、青山のお閻魔さまといわれていた。この像の右脇侍は閻魔大王、左脇侍は奪衣婆が安置されているので、この不動堂は一名閻魔堂ともいわれる。
なお、この像の作者は目黒不動尊と同一人といわれている。
著名墳墓
小田原大久保家歴代の基
(特に二宮尊徳と関係のあった大久保忠真(法名彰道院殿)の基)
岡本秋暉の基
渡辺華山の門人で、花鳥画に一機軸を出した南画家。
岡本碧巌の基
秋暉の長男。名を隆徳といい、碧巌と号した。有名な明治の大書家で、皇居前の楠公の銅像の基石碑文を書いている。(せたがや社寺と史跡より)

世田谷区教育委員会掲示による教学院の縁起

竹園山最勝寺教学院(天台宗)
本寺は慶長9年(1604)玄応和尚の開基により、江戸城内紅葉山に建てられたという。後、明治41年(1908)青山からこの地にうつされた。
本尊は阿弥陀如来で恵心僧都の作と伝えられる。また、不動堂の目青不動は東都五色不動の一つとして有名である。
境内には相州小田原城主大久保家歴代の墓、南画家岡本秋暉、その子初夏岡本碧巌等名家の墓がある。(世田谷区教育委員会掲示より)

教学院の周辺図


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