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円泉寺|世田谷区太子堂にある真言宗豊山派寺院

円泉寺の概要

真言宗豊山派寺院の円泉寺は、聖王山法明院と号し、賢恵僧都が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観世音を背負って関東に下向し、文禄5年当地に円泉寺を創建しました。太子堂に安置されている聖徳太子像は弘法大師の作と云われ、当地名の由来となっています。玉川八十八ヶ所霊場の51番霊場です。

円泉寺
円泉寺の概要
山号 聖王山
院号 法明院
寺号 円泉寺
本尊 十一面観世音立像
住所 世田谷区太子堂3-30-8
宗派 真言宗豊山派
葬儀・墓地 円泉寺太子堂で宗旨宗派を問わず葬儀利用可能
備考 玉川八十八ヶ所霊場51番札所



円泉寺の縁起

円泉寺は、賢恵僧都が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観世音を背負って関東に下向し、文禄5年当地に円泉寺を創建しました。太子堂に安置されている聖徳太子像は弘法大師の作と云われ、当地名の由来となっています。玉川八十八ヶ所霊場の48番霊場です。

せたがや社寺と史跡による円泉寺の縁起

真言宗、聖王山、法明院と号し、開山は賢恵僧都で葛飾郡新堀村の生れである。
円泉寺の建立由来書によると、文禄1年(1592)賢恵僧都が大和国久米寺から聖徳太子像と十一面観世音を背負って関東へ下った。文禄4年当地に来て一泊した時、賢恵僧都が不思議な夢をみた。聖徳太子が告げていうには「この地に霊地あり円泉ケ丘といふ。つ坤こ霊泉湧き出づ、永くここに安住せん。汝も共に止まるべし」と、翌文禄5年12月本堂、聖徳太子堂、庫裡が完成、本堂には運慶の作といわれる長さ約1mの十一面観世音立像を安置して本尊とした。
太子堂は、境内の中央にあり、約2間半4方で、長押に長谷の僧正動潮の筆になる「太子堂」の扁額がある。聖徳太子の像は約1尺1寸で弘仁9年(818)春、天下に大疫病流行の時疾疫の消除と国民擁護のため、弘法大師がこの尊像を精魂こめて作られたものと伝えられ、難症難治の病をいやし給うた諸顧成就の尊像である。この堂が出来てから土地は繁栄し一つの村をなすようになり、太子堂の号をとって太子堂村というようになった。
円泉寺には現在泉は湧き出ていないが、この辺りは太子堂町でも低い所で円泉が丘すなわち今の国立小児病院一帯に樹林が繁茂していた昔は、霊泉の湧き出る清浄な所であったと思われる。また、境内には世田谷教育界の大恩人である宮野芟平先生の碑がある。明治3年に世田谷村、松沢村、玉川村、目黒村、碑衾村の有志が協力して「郷学所」を作り宮野先生を迎えた。この郷学所は、今までの寺子屋と違い新時代に適した教材と、四民平等の新しい思想によって身分の上下を問わず教育した。明治4年4月3日、太子堂村380番地に立派な校舎を新設し、「太子堂郷学所」と命名し、明治6年2月東京府の指令で「幼童学所」と改称され、明治6年12月「太子堂幼童所」をそのまま新学制の小学校にし、「第二中学区第四番小学荏原学校」となる。ここに世田谷区内で第1番目の小学校が生まれたわけで、宮野先生はその初代校長に任命され、以後引き続き校長として世田谷の教育に尽力し明治28年3月現職中に逝去した。先生の高徳を長く後世に残すために明治20年荏原小学校が火災にあい焼失したとき一時仮校舎であったこの円泉寺の境内に頒徳の碑が建てられた。(せたがや社寺と史跡より)

世田谷区教育委員会掲示による円泉寺の縁起

聖王山法明院とよび、真言宗である。文禄五年(1597)に建てられ、開山は賢恵僧都である。本尊は不動明王立像及び二童子像である。また境内の太子堂には聖徳太子像がまつられ、太子堂の地名は、これにもとづいている。
世田谷教育界の恩人宮野芟平先生の碑がある。
先生は、明治3年郷学所がつくられてから、太子堂幼童学所、荏原学校となまえは変っても、引きつづき校長として郷土の教育につくした。この荏原学校は区内最初の小学校である。(世田谷区教育委員会掲示より)


円泉寺の周辺図


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