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西澄寺|世田谷区下馬にある真言宗智山派寺院

西澄寺の概要

真言宗智山派寺院の西澄寺は、日輪山薬王院と号します。西澄寺は、隆向和尚が紀伊国高野山釈迦院より下錫して天正2年(1574)に開山したものといわれ、大久保六右衛門忠勝が中興開基となったといいます。玉川八十八ヶ所霊場52番です。

西澄寺
西澄寺の概要
山号 日輪山
院号 薬王院
寺号 西澄寺
住所 世田谷区下馬2-11-6
本尊 大日如来像
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 玉川八十八ヶ所霊場52番



西澄寺の縁起

西澄寺は、隆向和尚が紀伊国高野山釈迦院より下錫して天正2年(1574)に開山したものといわれ、大久保六右衛門忠勝が中興開基となったといいます。

せたがや社寺と史跡による西澄寺の縁起

新義真言宗智山派に属し、京都智積院の末寺で、日輪山薬王院西澄寺と称する。本尊には大日如来、薬師堂には薬師如来が安置されている。
天正2年(1574)河内の人隆向和尚が紀伊国高野山釈迦院より下錫開山したものといわれているがくわしいことはわからない。江戸時代に中興したのは、大久保六右衛門忠勝で当時の住僧は宥秀和尚「寛文12年(1672)寂」であった。
明治維新前後からは、無住の寺で荒廃していたが、明治25年近江の人慧荘和尚は高野山より当山へ第10世の住職として来たり荒廃した本堂、庫裡等の再建を念願し、薬師堂にて1000日の穀断ちの修業をした。そして高野山で修得した灸術をもって近郷の人々の救済をしたところ霊灸の評判をとり、受灸者でにぎわった。現在も慧荘和尚より伝わった灸術で遠く北海道九州からも受灸者が来ている。
山門は武家屋敷門で都霊宝の指定を受けている。大正11年、本堂の改築の時、港区三田四国町にあった旧蜂須賀家屋敷門を移築したと伝えられている。番所に格子窓を設けるなど若干の変更があるが5~10万右の大名の屋敷門の形式、構造、装飾等を備え、数少ない武家屋敷門の遺構として貴重である。
梵鐘は明治32年受灸者から奉納された鏡、かんざし等の金属をもとにして鋳造した。たまたま、第二次世界大戦で供出したが、終戦時に無傷のまま深河の焼跡より発見され当山に復帰した。
本堂左側の高野槇の大木は開山の隆向和尚が高野山より移植したものといわれ、樹令数百年の古木である。この槇の木に登った人は失明するとか、当山にあった古木を伐採した時この槇も切ろうとしたら、3名までも仏罰を蒙ったなどといわれ、この槇は薬師如来の化身だとされた。当山に薬師堂を建立し薬師如来を安置し供養するようになったのもこのためだといわれる。(せたがや社寺と史跡より)

新編武蔵風土記稿による西澄寺の縁起

(馬引澤村)西澄寺
年貢地当寺も下馬引澤の内小名原にあり、新義真言宗橘樹郡小杉村最明寺の末なり、日輪山薬王院と号す。古き寺なり、起立の年代及び開山開基の姓名を傳へず、中興の開基は大久保六右衛門忠と云寛永七年九月二十一日死す、法名清涼院と号す、其頃の住僧を宥秀和尚と稱す、今これを中興の開山といへり、此僧寛文十二年十一月二十一日寂せり、客殿五間に七位仇本尊大日如来を安す。
薬師堂。客殿に向て左にあり、二間半四方。(新編武蔵風土記より)


西澄寺所蔵の文化財

  • 武家屋敷門(東京都指定有形文化財)

武家屋敷門

現在の港区芝五丁目にあった阿波徳島藩主蜂須賀家の中屋敷門を、大正末頃に西澄寺に移築したと伝わり、山門として転用されています。切妻造で、桁行六間の、中央に二間の両開きの潜戸と板壁を設けます。門の両端には、切妻造で桁行二間、梁間三間の出番所が配されます。六畳の番所には、表側には格子窓と、門内に面した側には式台が構えられています。
この門は江戸時代末期に建築されたと推定されており、いわゆる両番所附石垣出屋根庇造と呼ばれる構造の門です。大名屋敷の表門については、幕府は貞享年間(1648-88)に、大名の家禄高を基準に家格を加味して、その形式・構造を定めています。蜂須賀家の中屋敷門として、二五万石の大大名の家禄と家格に応じて建築されたもんと考えられます。東京に残る数少ない武家屋敷門の一つとして、貴重なものです。(東京都教育委員会掲示より)

西澄寺の周辺図


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