喜多見不動堂|世田谷区成城にある堂宇

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喜多見不動堂|喜多見の住人が明治9年に創建

喜多見不動堂の概要

喜多見不動堂は、世田谷区成城にある堂宇です。喜多見不動堂は、喜多見の住人浦野半次郎ほか6名が発起人となり明治9年に創建、昭和16年慶元寺の境外仏堂となったといいます。

喜多見不動堂
喜多見不動堂の概要
山号 -
院号 -
寺号 -
住所 世田谷区成城4-2
宗派 -
葬儀・墓地 -
備考 -



喜多見不動堂の縁起

喜多見不動堂は、喜多見の住人浦野半次郎ほか6名が発起人となり明治9年に創建、昭和16年慶元寺の境外仏堂となったといいます。

世田谷区教育委員会掲示による喜多見不動堂の縁起

慶元寺境外仏堂喜多見不動堂
この不動堂は喜多見慶元寺の境外仏堂で、本尊は不動明王坐像である。
創建は明治九年五月で、村内安全、諸難消除、各願成弁のため、喜多見の住人浦野半次郎が発起人となり西山八郎兵衛、田中福太郎、宮川太郎兵衛、田中留吉、宮川安五郎、西山伊兵衛の各氏が願主となって、有志の寄進を得て今の地に堂宇を建立し尊像を安置したものである。
この尊像は、明治の初め多摩川大洪水のとき、喜多見川原に流れ着いたものを前記の願主たちが成田山新勝寺で入魂したものと伝えられている。
境内には湧水による滝があり、かつては信者が水行した。また、この滝口には滝不動が祀られている。
堂宇と並んで岩屋不動、玉姫稲荷、蚕蔭大神を祀った小祠がある。
毎年冬至の日には星祭りが執行され、護摩が奉修され、特に南瓜に”真田幸村”と書き、自分の名を併記して護摩供養すると喘息や中風に罹らないという南瓜護摩が古くからこの日に行われている。(世田谷区教育委員会掲示より)

せたがや社寺と史跡による喜多見不動堂の縁起

喜多見不動堂(喜多見町1352の1)
本尊不動明王座像作者不詳である。明治3年当地の住浦野半次郎・西山八郎兵衛・田中福太郎・宮川|太郎兵衛・田中留吉・宮川安五郎・西山伊兵衛など7人交替にて不動明王の厨子を成田山新勝寺まで背負って行き入魂式を行ない往復徒歩1週間かかったといわれこの不動像はその数年前多摩川大洪水の時喜多見河原へ流れ着いたものという。また説に右7名の者当時新勝寺住職原口教正の護持仏不動尊像を授与せられたともいわれているが現在本堂と庫裡とに各1体ずつの像を安置してありその何れか当時の記録も口碑も残っていない。ともに矜羯羅、制吒迦両童子が脇侍である。明治9年5月村内安全諸難消除各願成弁の為浦野半次郎発起人となり西山八郎兵衛以下願主となり村内有志の寄進を得て喜多見丘陵の中腹現在地に17坪余(56m2)の本堂を創建安置し戦前まで非常に栄え信者も多く講中も遠近の村々に及んだ。先達は初代北島某以下3代におよび 3代没後信者の古参数人にて維持してをり行者先達を置かず昭和16年1月同町慶元寺34世信鏡上人の代同寺の境外仏となる。境内385坪(1270m2)は浦野亮策・寛父子の寄進であり岩屋不動明王・滝不動・玉姫稲荷・蚕蔭大神などが祀られ杉松の木繁茂し眺望絶佳である。創建当時より毎年厳寒中行者先達を中心に数名の信者が夜中に滝に打たれ水行して近村の神仏に祈願をこめて巡り心身の鍛練道場としていたが今は絶え毎月1日・15日・28日の3日の勤め位で毎年冬至の夜の星祭行事は有名である。宝物に数百年を経た約七寸(21cm)位の宝剣があったが今はない。向拝に大きい立派な鰐口が下がっている。(せたがや社寺と史跡より)


喜多見不動堂の周辺図