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勝光院|世田谷区桜にある曹洞宗寺院、世田谷吉良家の菩提寺、御朱印寺

勝光院の概要

曹洞宗寺院の勝光院は、延命山と号し、建武2年(1335)に建長寺の吟峰竜公禅師が開山、世田谷城主吉良治家が開基となり、臨済宗金谿山竜凰寺として創建しました。天正元年(1573)吉良頼康の子氏朝が小机村雲松院の住持天永琳達禅師を招き、父頼康の院号より興善山勝光院と改称の上曹洞宗に改めました。徳川家康関東入国後の天正19年には30石の御朱印状を拝領しています。また境内には世田谷吉良家歴代の墓所など多数の世田谷区指定文化財があります。

勝光院
勝光院の概要
山号 延命山
院号 勝光院
寺号 -
本尊 虚空蔵菩薩
住所 世田谷区桜1-26-35
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



勝光院の縁起

勝光院は、建武2年(1335)に鎌倉建長寺の吟峰竜公禅師が開山、世田谷城主吉良治家が開基となり、臨済宗金谿山竜凰寺として創建しました。天正元年(1573)吉良頼康の子氏朝が小机村(執浜市港北区)雲松院の住持天永琳達禅師を招き、父頼康の院号(勝光院殿脱山浄森大居士)により興善山勝光院と改称の上曹洞宗に改めました。徳川家康関東入国後の天正19年には30石の御朱印状を拝領しています。

せたがや社寺と史跡による勝光院の縁起

曹洞宗大源派で、多摩郡下恩方村心源院の末寺延命山と号し、もとは臨済宗で金谿山竜凰寺といい、のち興善寺と改めたこともある。この寺の中興2世観堂宗察和尚のとき、天正19年(1591)に将軍家康から寺領を30石与えられた。
建武2年(1335)に世田谷城主吉良治家(法名は興善寺殿月山清光大居士)が開基したものと伝えている。開山は鎌倉建長寺の吟峰竜公禅師で文和3年(1354)になくなっている。その後、天文15年(1546)吉良頼康が中興開基で法名を勝光院殿脱山浄森大居士といい、永禄4年(1561)12月15日卒した。
この寺は天正1年(1573)頼康の子氏朝が小机村(執浜市港北区)雲松院の住持天永琳達禅師を招いてから曹洞宗となった。本尊は虚空蔵菩薩で、座像2尺ばかり、運慶の作で吉良四天王の一人関加賀守が寄進し、達磨大師の木像は氏朝の局女が寄進したものと寺の過去帳に記している。
寺宝として1寸2・3分ばかりの木造の観音像があるが、これは精密な彫刻で、氏朝の守本尊と伝えている。このほか蘇康の妾常盤の守刀で、仁王膳清の銘のある短刀が保存されていたというが今はない。
城山(世田谷城跡)にあった千手院の本尊千手観音は、いまは本堂に安置されている。昔は信仰する人が多く、毎月10日に開扉されて境内はにぎわった。
この寺の宝物に有名な「火蛇の爪」がある。ある亡者の葬送のとき、一天にわかにかき曇り、黒雲を覆い亡者をとろうとしたとき.この寺の住持は智徳あって、珠数ではらったところ、怪物は退散した。その時、怪物が落した爪だといわれる。水晶の珠数とともに保存されている。
「愛縁仏縁起」によると、北条氏康の娘崎姫が、永禄1年(1558)蒔田から(横浜市南区蒔田町ここには隣国寺という寺があり吉良政忠の墓と称する五輪塔がある)3千石を化粧免(持参金)として吉良氏に嫁入りした。天文6年(1537)春のころ薬師如来が崎姫にお告げがあって、白鷺の足に和歌を記した短冊をつけて放したところ、頼康の鷹がこれをとらえたのが、縁結びとなったという。この愛縁薬師如来は2尺はかりの木像で運慶の作と伝えている。この寺の基地には吉良氏代々の墓が並んでいる。(せたがや社寺と史跡より)

世田谷区教育委員会掲示による勝光院の縁起

延命山勝光院
勝光院は初め金谿山竜凰寺といい、建武2年(1335)吉良氏の創建になると伝える。天正元年(1573)吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号により興善山勝光院と改称した。この時、臨済宗から曹洞宗に改宗した。同10年客殿(旧本堂)の建立を機に、家臣関加賀守が虚空蔵菩薩像を寄進した。
同19年、徳川家康から寺領30石を与えられた。なお元文2年(1737)には、山号を延命山に改めている。
当寺には、本尊虚空蔵菩薩坐像のほか、清水寺式の珍しい千手観世音菩薩坐像がある。この像は、もと城山(世田谷城址)にあった塔頭の千手院の本尊であった。書院は文政6年(1823)の再建で、区有形文化財に指定されている。墓地には、吉良氏歴代の墓のほか、幕臣広戸備後正之の墓がある。(世田谷区教育委員会掲示より)


勝光院所蔵の文化財

  • 勝光院書院
  • 勝光院の梵鐘
  • 吉良氏墓所

勝光院の梵鐘

本梵鐘は、元禄11年、当山第13世隆山傳盛の代に制作されたもので、区内に伝わる梵鐘としては、二番目の古さである。第二次世界大戦に際し供出に応じたが、幸い鋳潰しを免れ、しばらくの間、葛飾区東金町の金蓮院に伝えられていた。昭和52年当寺に返還され、今日に至っている。
梵鐘の形姿は、優美で均整がとり、各地に見られる装飾も堅実な出来栄えであり、工芸品として優れている。制作者の加藤吉高は八王子に本拠をおき、江戸時代をつうじて主に三多摩地方を活動範囲とした所謂「加藤鋳物師」の一人である。
本梵鐘は、吉高いの力量が窺えるとともに、加藤鋳物師制作の鐘の変遷を考えるうえでも重要な位置を占めている。また、元禄年間頃の当寺について記す史料は、井伊家文書中の「世田谷二拾ヶ村御帳」(元禄8年/彦根城博物館蔵)以外知られておらず、この次期の銘文を有する本梵鐘の存在意義は高い。
近世世田谷の歴史を知るうえで、また、世田谷の近世美術工芸品を語るうえでも、本梵鐘は貴重な遺品である。(世田谷区教育委員会掲示より)

吉良氏墓所

吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で、三河国吉良荘より起こった。世田谷吉良氏はその庶流で、十四世紀後半、治家の代に世田谷に居館を構えたと伝えられる。室町・戦国期を通じて、吉良氏は足利氏御一家として家格の高さを誇り、世田谷地域を支配していた。十六世紀、頼康・氏朝の代には後北条氏と婚姻を結ぶなどの関係にあった。
関東が徳川氏の支配下に入ると氏朝の子・頼久は上総国寺崎村に所領を移され、以後吉良氏は旗本として幕末まで存続したが、その間も勝光院は吉良氏の菩提寺であった。
勝光院は天正元年(1573)、氏朝の中興開基で、吉良氏墓所には氏朝の孫・義祇以降の一族の墓が所在する。全28基と、墓所内の隅に集積された墓塔が十数基ある。(世田谷区教育委員会掲示より)

勝光院のもと末寺・塔頭


勝光院の周辺図


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