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金剛寺|世田谷区中町にある真言宗智山派寺院、坂東七薬師

金剛寺の概要

真言宗智山派寺院の金剛寺は、東陽山薬王院と号します。金剛寺は、弘安七年(1284)聖空上人が薬師如来を勧請して堂宇を建立、吉良家の遺臣粕谷遠江守(心臾道沙弥)が開基、頼栄訪印が開山となり、慶長年間(1598-1614)金剛寺を創建、一族の菩提寺としたといいます。当寺の薬師如来は野良田の北向薬師と称し、坂東の7薬師のーつに数えられたといいます。玉川八十八ヶ所霊場35番です。

金剛寺
金剛寺の概要
山号 東陽山
院号 薬王院
寺号 金剛寺
住所 世田谷区中町2-20-11
本尊 大日如来像
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 玉川八十八ヶ所霊場35番



金剛寺の縁起

金剛寺は、弘安七年(1284)聖空上人が薬師如来を勧請して堂宇を建立、吉良家の遺臣粕谷遠江守(心臾道沙弥)が開基、頼栄訪印が開山となり、慶長年間(1598-1614)金剛寺を創建、一族の菩提寺としたといいます。当寺の薬師如来は野良田の北向薬師と称し、坂東の7薬師のーつに数えられたといいます。

世田谷区教育委員会掲示による金剛寺の縁起

弘安七年(1284)聖空上人が薬師如来を勧請、一宇を建立したのに始まり、野良田の北向薬師と称し坂東七薬師の一として信仰を集めた。この地に土着帰農した吉良の遺臣粕谷遠江守が入道して心臾道沙弥と称し、慶長年間(1598-1614)頼栄訪印を開山第一世として、金剛寺を創建し、一族の菩提寺とした。
本尊は大日如来。寺宝には、絹本愛染明王像(天文十六年)鰐口(元禄十一年)金襴七条袈裟(正徳二年)がある。(世田谷区教育委員会掲示より)

せたがや社寺と史跡による金剛寺の縁起

新義真言宗智山派に属し、京都智積院の末寺で、東陽山薬王院金剛寺と称する。本尊は大日如来で、脇侍は不動明王と観音菩薩である。
寺伝によれば弘安7年(1284)聖空上人巡錫の時、たまたま荏原郡野良田村(現在の玉川中町)に錫を止め現在の地を卜して一宇を建立し、薬師如来を勧請して世の浄信を集めた。実にこれをもって金剛寺の開基とする。以来今日にいたるまで野良田の北向薬師と称し、霊験あらたかにして特に限病・安産に効験あって世人に厚く信仰され、坂東の7薬師のーつとして世に広く喧伝せられている。山門を入って右側にある薬師堂に安置され、昔より秘仏として開扉を禁ぜられている。なお、旧堂宇は元禄期(1688-1704)の建物で腐朽甚しかったので、昭和41年、現在の間口三間(5m)奥行三間半(6m)のものに改築された。天正18年7月(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により小田原の北条氏は減亡し、従って麾下の世田谷城主吉良氏も衰亡したのであるが、吉良氏の重臣粕谷遠江守(与右衛門)は主家と運命をともにし、世を遁れて、弦巻村にひそみ、後、野良田村に移住、ここを開拓して土着した。入道して法名を心臾道中沙弥(元和6年1620)と称し3月21日没し行年82才、中町粕谷家の元祖で、以後代々宗家として野良田の名主をつとめた。ついでさきの聖空上人北向薬師如来を奉祀し、慶長年間(1596-1615)頼栄法印(慶安3年1051年10月13日示寂)を請うて粕谷一族(現在70余家)の菩提寺金剛寺を現在地に建立した。よって頼印法印をもって金剛寺開山第一世とし、第26世の現住にいたっている。なお、旧本堂は関東大震災で倒壊したので、昭和35年、現住職が壇徒に請うて7間4面の現本堂を再建し、ついで客殿・山門などを建立して往時の旧観に復せしめた。
普から寺に伝えられてきた宝物として、愛染明王像(絹本、天文16年1547年奉納箱書)・青銅鰐口一口(薬師堂・元禄11年1698年12月、粕谷伊兵衛基次・粕谷伝兵衛奉納)・金欄七条袈裟一領(正徳2年1712年金剛寺住職定精法奉納)がある。(せたがや社寺と史跡より)

新編武蔵風土記稿による金剛寺の縁起

(野良田村)金剛寺
除地五段歩、字上にあり、東陽山と号す。真言宗新義等々力満願寺末、本堂七間に五間、西向、本尊大日如来、開山は頼栄といひしと其事蹟を詳にせず。
薬師堂。門を入て右にあり、二間半四方なり。(新編武蔵風土記より)


金剛寺の周辺図


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