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駒繋神社|世田谷区下馬の神社

駒繋神社の概要

駒繋神社は、世田谷区下馬にある神社です。駒繋神社の創建年代は不詳ですが、源義家が父頼義と共に朝命をうけ奥州の安部氏征討(前九年役)に向う天喜4年(1056)に当社に戦勝祈願したと伝えられ、また源頼朝が奥州の藤原泰衡征伐の際にも当社の松の木に駒を繋いで戦勝祈願したと伝えられるといいます。

駒繋神社
駒繋神社の概要
社号 駒繋神社
祭神 大国主命
相殿 -
境内社 稲荷神社
祭日 -
住所 世田谷区下馬4-27-26
備考 -



駒繋神社の由緒

駒繋神社の創建年代は不詳ですが、源義家が父頼義と共に朝命をうけ奥州の安部氏征討(前九年役)に向う天喜4年(1056)に当社に戦勝祈願したと伝えられ、また源頼朝が奥州の藤原泰衡征伐の際にも当社の松の木に駒を繋いで戦勝祈願したと伝えられるといいます。

せたがや社寺と史跡による駒繋神社の由緒

駒繋神社
昔から「子の神」といわれていたが、明治以降正式に駒繁神社と呼ばれるようになった。当社は今から900年程前天喜4年(1056)源義家が父頼義と共に朝命をうけ奥州の安部氏征討(前九年役)に向う途中この地を通過、子の神に武運を祈ったと伝えられているから、少なくともこれ以前に里人たちによって出雲大社の分霊を勧請し守護神として祀ったことは明らかである。
降って文治5年(1189)源頼朝が奥州の藤原泰衡征伐のため自ら大軍をひいいて鎌倉を発し、この地を通過する時、祖先義家が本社に参拝したのを回想し、愛馬芦毛を境内の松の木に繋いで参拝したので、駒繁神社とも称するようになった。
以上は社伝によったものであるが、江戸時代の様子は「江戸名所図会」に、
「正一位子明神社、二子街道、下馬引沢邑道より左の方、耕田を隔てて丘の上にあり、別当は天台宗宿山邑寿福寺兼帯、子明神の前、今田畑となれる地は、旧名馬引沢といえども、今は上中下と三つに分れたる邑名となれり」
とある。「武蔵風土記稿」には
「子ノ神社、除地五段、下馬引沢ノ内小名子ノ神丸ニアリ、ソノ処ノ鎮守ナリ。コノ社ノ鎮座ノ年歴ヲ詳カニセズ。本地仏ハ文殊菩薩ノ由イエリ。本社九尺ニ二間、拝殿二間ニ三間、社地ノ入口ニ柱間八尺ノ鳥居ヲ建、コレヨリ石段二十五級ヲ歴テ社前ニ至ル。又本社ノ未ノ方ニモ同ジ鳥居一基アリ。末社稲荷社、本社ノ左右ニワヅカナル祠、一祠ヅツアリ」
と記されているので、この時代にも有名な神社であったことがわかる。
昭和37年鉄筋造りに改築した。秋の大祭は9月18日前後の土日曜である。因みに駒繁の松は神楽殿脇にあり、現在3代目という。(せたがや社寺と史跡より)

世田谷区教育委員会掲示による駒繋神社の由緒

(馬引澤村)子の神社
除地五段、下馬引澤の内小名子の神丸にあり、その所の鎮守なり、此社の鎮座の年歴を詳にせず、本地佛は文殊菩薩の由いへり、本社九尺に二間拝殿二間に三間社地の入口に柱間八尺の鳥居を建、これより石階二十五級を歴て社前に至る、又本社の末の方にも同じ鳥居一基をたてり、
末社稲荷社。本社の左右にわづかなる祠一社づつあり。(世田谷区教育委員会掲示より)


駒繋神社の周辺図


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