宝樹院。蕨市中央にある臨済宗建長寺派寺院

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宝樹院。渋川氏のもと家来が渋川公(宝樹院殿)を弔った寺

宝樹院の概要

臨済宗建長寺派寺院の宝樹院は、金峯山と号します。宝樹院は、正宗廣智(正慶元年1332年寂)が開山となり創建したといいます。蕨城主であった渋川公(宝樹院殿)が上総国三舟山の合戦で里見氏に敗れて永禄十年(1567)に戦死、渋川氏のもと家来が渋川公及び夫人を当寺に弔ったといいます。

宝樹院
宝樹院の概要
山号 金峯山
院号 宝樹院
寺号 -
本尊 地蔵菩薩像
住所 蕨市中央2-10-14
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



宝樹院の縁起

宝樹院は、正宗廣智(正慶元年1332年寂)が開山となり創建したといいます。蕨城主であった渋川公(宝樹院殿)が上総国三舟山の合戦で里見氏に敗れて永禄十年(1567)に戦死、渋川氏のもと家来が渋川公及び夫人を当寺に弔ったといいます。

新編武蔵風土記稿による宝樹院の縁起

(蕨宿)寶樹院
臨済宗、芝村長徳寺末、金峯山と號す、本尊地蔵は坐像にて長五寸許、運慶の作、開山を正宗廣
智と云、正慶元年寂す、當院に渋川左衣紋及び彼母子の石碑位牌等あり、石碑に寶樹院殿英岳俊公大居士、永禄十年八月廿三日、渋川左衛門、竹香院殿仁苗義公大居士、天正十九年八月十六日、子息とあり、また左衛門殿三男と見ゆ、妙心院殿三泰壽陽大姉、大永二年五月十六日、妻婦とあり、是何れの妻といへるにや、この三つの法諡を一基とせり、左衛門督母公龍躯院殿自山貞性大姉、永禄十年十二月廿七日と彫たる碑、傳芳院殿自山寄山長公大禅定門、天正十一年正月廿四日、左衛門督舎弟と記せしあり、この三基とも天正年中渋川氏断絶の後、其家人高橋・今井・町田・山田・長島其餘の氏人建しといへど、其頃のものとも思はれず、中古建たるにや、又位牌には渋川を蕨に作り、竹香院大禅定門、五月十一日として、蕨二郎長公子とあり、妙心院の殿を除き、卒日も八日となし、蕨左衛門母と見えたり、又左衛門督舎弟傳芳院と、俊公子とのす、今も前にいへる家人の氏を名乗ものあり、其子孫なるべし。
天神社、太子堂。(新編武蔵風土記稿より)


宝樹院所蔵の文化財

  • 渋川公墓所

渋川公墓所

金峰山宝樹院は、臨済宗建長寺派に属し、川口市芝の長徳寺の末寺で、創建の年代ははっきりしませんが、観応三年(1352)以前の創建と考えられています。
本尊は、地蔵菩薩。蕨城城主であった渋川氏の菩提寺として知られています。
永禄十年(1567)、渋川公(宝樹院殿)は上総国三舟山(千葉県富津市・君津市の境界付近)の合戦で里見氏に敗れて戦死し、その死を悲しんだ夫人(竜体院殿)も榛名湖に入水したといわれています。
入水した夫人は竜神となり、榛名神社に雨乞いに行くと雨が降るという伝説が生まれ、榛名湖まで水をもらいに行く雨乞いの行事が昭和初期まで行われていました。
宝樹院殿・竜体院殿の石碑は、江戸時代初期の文化十三年(一八一六)に、渋川公夫妻の二五〇年忌に渋川氏の家来の子孫によって造立されたもので、それぞれに戒名と夫人の石碑には、渋川公の戦死を悲しみ榛名湖に入水したなどの口碑が刻まれています。(蕨市教育委員会掲示より)


宝樹院の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿