美女木八幡社。戸田市美女木の神社

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美女木八幡社。鶴岡八幡宮領だったことから創建、足立郡佐々目郷の総鎮守

美女木八幡社の概要

美女木八幡社は、戸田市美女木にある神社です。美女木八幡社の創建年代は鎌倉時代だといいます。源頼朝が奥州下向の際に当地に立ち寄り文治5年(1189)に創建したとも、鎌倉時代に当地周辺が鶴岡八幡宮領だったことから社領の鎮守として創建したともいいます。鎌倉期より足立郡佐々目郷の総鎮守として崇敬を受けていたといい、慶長19年(1614)には江戸幕府より社領16石の御朱印状を拝領、別当寺だった鶴移山圓通寺の僧榮陳は、常憲院(徳川綱吉)の帰依を受けていたことから、常憲院や桂昌院から数多くの寄進を受けたといいます。また当社の銅鐘は、下笹目村最勝寺の池(下笹目村小名早瀬にあった聖釜という池)から掘り出されたものだといい、国重要美術品となっています。

美女木八幡社
美女木八幡社の概要
社号 八幡社
祭神 仲哀天皇、応神天皇
相殿 -
境内社 厳島社、山神社、氷川社、大鳥社、水神社、御嶽社、秋葉社、赤羽稲荷社、香取・鹿島社、恵比須大黒天社、三宝大荒神、稲荷、一目連社
祭日 9月15日
住所 戸田市美女木7-9-1
備考 -



美女木八幡社の由緒

美女木八幡社の創建年代は鎌倉時代だといいます。源頼朝が奥州下向の際に当地に立ち寄り文治5年(1189)に創建したとも、鎌倉時代に当地周辺が鶴岡八幡宮領だったことから社領の鎮守として創建したともいいます。鎌倉期より足立郡佐々目郷の総鎮守として崇敬を受けていたといい、慶長19年(1614)には江戸幕府より社領16石の御朱印状を拝領、別当寺だった鶴移山圓通寺の僧榮陳は、常憲院(徳川綱吉)の帰依を受けていたことから、常憲院や桂昌院から数多くの寄進を受けたといいます。また当社の銅鐘は、下笹目村最勝寺の池(下笹目村小名早瀬にあった聖釜という池)から掘り出されたものだといい、国重要美術品となっています。

戸田市教育委員会掲示による美女木八幡社の由緒

創建を鎌倉時代と伝える古社で、祭神は仲哀天皇と応神天皇の二柱です。伝承によると、後鳥羽院の御代、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州下向の時、当地に立ち寄った際に神のお告げがあり、相州鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したものと伝えられています。南北朝期の記述として、『新八幡宮』といわれていたことが浦和市宮本の氷川女体神社に伝存する大般若経(至徳二年・一三八五)の奥書に記されています。
この八幡社には、社宝として「銅鐘」があります。市内では唯一の国の重要美術品で、埼玉県の有形文化財に指定されています。この銅鐘は、早瀬にあった聖釜という池から掘り出されたものと伝えられます。銘文はありませんが、作風から鎌倉時代末期から南北朝時代の作といわれています。ほかに天保四年(一八三三)に奉納された「最上流和算額」や、「七条袈裟及び打敷」などが市の有形文化財に指定されています。また境内には「うばゆり」があり、八月上旬に白い花が見られます。市の天然記念物に指定されています。(戸田市教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による美女木八幡社の由緒

(美女木村)
八幡社
笹目領の惣鎮守なり、社領十六石の御朱印は慶長十九年に附せらる、神體は仲哀天皇・應神天皇の木像長二尺餘の坐像なり、社傳に云後鳥羽院御宇文治五年右大将源頼朝奥州下向の時、當院に寄宿し靈夢の告により、相州鶴岡八幡を寫して勧請せしめし所なりといへど、往古のことなれば其詳あることを知らず、中古戦争の亂に逢て衰廢せしを元亀元年伊賀賣信入道といへるもの再建ありしと云、例祭八月十五日、古は流鏑馬を興行せしが今は廢せり、御祈祷の札は鶴岡八幡に準して今に公へ奉けり。
鐘楼。萬治三年鋳造の鐘を掛く、銘文あれど考證に益なければとらず。
大鐘一口。拝殿の隅に置り、径一尺九寸餘、長三尺許の古鐘なり、往古下笹目村最勝寺の池中より出しと云、因て其所を鐘ヶ洲とも又最勝寺釜とも呼べり、是を龍宮より献りしものなりなどいへど、元より妄誕の説にしてとるにたらざれど、往古の鋳造なることは疑ふべからず、模型龍頭のさま等江州三井寺の鐘に似たり、先年故ありて少しく破裂せしが後年を経て元の如くいゆと云、古鐘の鍛ひよきものはかかることもありしといへり。
末社。太神宮神后皇后高良明神住吉明神合社、天王社、帝稲荷社、飯綱権現社、辨天社、第六天社、大龍頭権現社。
別当圓通寺
新義真言宗、京都醍醐三寶院末、前に云へつ如く當社の八幡は鶴岡を寫せし故、山を鶴移と號すと云、本尊不動且阿彌陀愛染住一面観音を安ず、中興の僧榮陳元文三年正月十二日示寂、此僧高徳にて常憲院殿御歸依他に異なり、由て御奉納物あり、左に出す。
什寶。
七條袈裟一具。常憲院殿御能装束の切なり、裏書に元禄四辛未年五月十日御城於御座之間拝領之と記せり。此外五條袈裟且法服等も拝領せり。
戸帳一打數一。裏書に元禄七年極月十五日、桂昌院殿御寄附の所なりとあり。
旗十二本。白縮緬へ金にて八幡宮と記す、是は徳松君御降誕の時、御祈祷のために御奉納ありしといふ。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による美女木八幡社の由緒

八幡社<戸田市美女木七-九-一(美女木字三宝谷)>
当地は、荒川左岸の自然堤防とその後背地に位置する。地名「美女木」の由来は、昔、京都からゆえあって美しい女官数名が当地に来たことによると伝える。地内の北西部にある当社は、旅を好んだ僧侶津田大浄が文化文政期に参詣し「社内松杉繁茂して寂々寥々たり」と『遊歴雑記』に述べている。大浄が参詣したころは、当社の随身門から荒川堤まで五丁ほど(約五〇メートル)にわたり松並木の参道が延び、春になると堤外は桜草が咲き乱れていたと伝える。
「美女木八幡」と呼び親しまれる当社は、鎌倉期より足立郡佐々目郷の総鎮守として知られる。佐々目郷は、禰宜橋(下笹目小字根木橋)や当地美女木を含む戸田市西部から浦和市西部に広がる地で、「鶴岡八幡宮寺供僧次第」によると、正応六年(一二九三)六月二十七日「佐々目郷大乗経料所」として鶴岡八幡宮に寄進されている。恐らく当社は、鎌倉期、佐々目郷が鶴岡八幡宮領になるに及び、社領鎮守として権請されたのであろう。当地には鶴岡八幡宮に通ずる要路、鎌倉街道が通る。また、氷川女体神社(浦和市宮本)所蔵の「大般若経」第五八九の至徳二年(一三八五)十二月十六日の奥書に「足立郡佐々目郷」「新八幡宮」とある。この新八幡宮が当社のことである。
由緒は『風土記稿』に社伝として、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州遠征の途次、美女木に寄宿、その夜霊夢の告げにより、鶴岡八幡宮を権請したとある。
主祭神は誉田別尊である。『風土記稿』には、神体が応神天皇と仲哀天皇の座像で、高さ二尺余(約六〇メートル)とある。
戦国期、数次の戦乱のため、社領は一時荒廃したが、元亀元年(一五七〇)に伊賀宝信入道により再建された。
江戸期、笹目領の総鎮守として慶長十九年(一六一四)に、徳川家康より社領一六石が寄進されている。
別当は、真言宗の鶴岡山円通寺である。山号の鶴岡山は当社が鶴岡八幡宮を勧請したことに由来する。同寺は幕府との結び付きが強く、『風土記稿』によると、中興の祖栄陣は高徳の僧で徳川綱吉が深く帰依し、元禄四年(一六九一)五月十日、綱吉の能装束の切れで作られた七条袈裟と五条袈裟及び法服を拝領している。この栄陣は、同六年(一六九三)十一月に当社本殿の修繕を行っている。また、綱吉の母である桂昌院が同七年(一六九四)十二月十五日、戸張を寄進している。更に、白縮緬に金で八幡宮と記した御旗一二本は、綱吉誕生の時、御祈禱のため奉納されたものであると伝える。
明治初年、神仏分離により、円通寺は当社の祭祀から離れるとともに廃寺となる。(「埼玉の神社」より)


美女木八幡社所蔵の文化財

  • 銅鐘(国重要美術品)

美女木八幡社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿