中氷川神社。所沢市三ヶ島の神社

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中氷川神社。長宮明神、入間郡三ヶ嶋領の総鎮守、延喜式内社論社

中氷川神社の概要

中氷川神社は、所沢市三ヶ島にある中氷川神社です。中氷川神社の創建年代等は不詳ながら、崇神天皇の代に社託によって勧請、日本武尊東征の際に大己貴命・少彦名命の二柱を併せ祀ったといいます。足立郡大宮の氷川神社西多摩郡氷川村の上氷川神社との中間に鎮座することから中氷川神社と称されるようになったといい、『神祇志料』や『旧神祠記』などの古書には、中氷川神社の鎮座地は三ヶ島とされていることから、当社が延喜式式内社の中氷川社だといいます。いつの頃からか長宮明神とも中宮とも称されて入間郡三ヶ嶋領の総鎮守だったといい、天正19年(1591)には社領10石の御朱印状を拝領、明治5年村社に列格していました。

中氷川神社
中氷川神社の概要
社号 中氷川神社
祭神 素盞嗚尊、奇稲田姫、日本武尊、大己貴命、少彦名命
相殿 -
境内社 八坂社、山王社、荒脛社、稲荷社
祭日 -
住所 所沢市三ヶ島5-1691-1
備考 -



中氷川神社の由緒

中氷川神社の創建年代等は不詳ながら、崇神天皇の代に社託によって勧請、日本武尊東征の際に大己貴命・少彦名命の二柱を併せ祀ったといいます。足立郡大宮の氷川神社西多摩郡氷川村の上氷川神社との中間に鎮座することから中氷川神社と称されるようになったといい、『神祇志料』や『旧神祠記』などの古書には、中氷川神社の鎮座地は三ヶ島とされていることから、当社が延喜式式内社の中氷川社だといいます。いつの頃からか長宮明神とも中宮とも称されて入間郡三ヶ嶋領の総鎮守だったといい、天正19年(1591)には社領10石の御朱印状を拝領、明治5年村社に列格していました。

新編武蔵風土記稿による中氷川神社の由緒

(三ヶ島村附新田)長宮明神社
社領十石の御朱印を賜はる、祭神は素盞嗚尊・稲田姫・大巳貴命・少彦名命の四座を祀れり、相傳ふ當社は神名帳に載たる中氷川神社なりとぞ、證とする所は古き棟札ありと云、其文に武州入東郡宮寺郷、中氷川神社殿造正長元年九月廿三日、また天文二十三甲寅年四月廿一日、社造營のときの棟札あり、文は大抵前に同じ、此二枚は今棟木を穿ち凹めて其内に収め、木を埋めて其上を蓋ひ、ただその寫のみを傳ふ、その文體當時のものなるべく覺ゆれど、ただ疑はしきは斯の如き證據あらば、などか中氷川の神號を用ひずして長宮とは號するや、別にゆへあるか、又中宮と云べきを誤り傳へてかく唱ふや。
槻木。本社に向て右にあり、四百餘年の古木なりと云。
末社。荒脛社、手無槌・足無槌を祀る。
神職。宮野出雲、家系詳ならず、按に正長の棟札に神主左衛門太夫家吉、天文の札に新左衛門尉とあるは、出雲が祖先なるにや、今も八王子北條氏照の文書を蔵す。 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による中氷川神社の由緒

中氷川神社<所沢市三ヶ島五-一六九一(三ヶ島字宮ヶ谷戸)>
狭山丘陵の北麓に位置する三ヶ島は、古くから畑作を中心とした農業地域として発展してきた。三ヶ島の地名は、開村当時は家数がまだ少なく、村内に三ヵ所の小さい集落があるだけであったため、遠方から見ると、あたかも原野の中に三つの小島が浮かんでいるようであったことに由来すると伝えられている。当社は、この三ヶ島の人々によって累代奉斎されており、鎮座地も当社にちなんで宮ヶ谷戸と呼ばれている。
当社の境内は、県道所沢青梅線のすぐ南側にあり、鬱蒼とした杉檜の混淆に囲まれて、丹塗りの拝殿が神さびた雰囲気の中に精彩を放っている。また、参道の両脇には桜が植樹されており、春には花見がてら参詣に訪れる人も多い。この境内が、北東から南西にかけて、非常に細長い形をしているところから、かつて当社は長宮とも称されていた。当社の所蔵する数々の裁許状や、社領安堵状などを見ても、「中氷川神社」と記されているものはごく少なく、その大部分が「長宮明神」もしくは「長宮中氷川神社」などと記されたものであるところから、当時においては、長宮の方が一般的な呼称として広く知られていたと考えられる。
ただし、長宮の呼称については、前述した境内の形からきたとする説のほかに、永禄九年の北条し制札に「中宮」と記されているところから、元来は社号を略して中宮と称していたのが、いつしか転じて長宮となったのだとする説があり、現在は、この説の方が有力である。
社記によれば、当社は崇神天皇の代に、社託によって勧請された社であり、初めは素盞鳴尊と奇稲田姫の二柱を祀っていたが、日本武尊が東征に際してこの地を通り掛かった時に霊異を感じ、これに大己貴命・少彦名命の二柱を併せ祀ったと伝えられ、以来、身分の上下を問わず広く信仰を集めるところとなった。
『延喜式』には、武蔵国四十四座の一つとして「中氷川神社」の名が記されている。ここに記されている「中氷川神社」は、古くから当社のことであるとも、また市内の山口にある同名の神社であるともいわれているが、両社共に式内社であることを裏付ける確証が得られていないために、今日においてもまだ結論は出されていない。ただし、『神祇志料』や『旧神祠記』などの古書には、中氷川神社の鎮座地は三ヶ島とされており、文化一〇年に地頭の沢次郎右衛門が神職の宮野出雲に宛てた文書の中にも「中氷川神社長宮明神の儀は東照宮様より御朱印被下置、殊に延喜式内の社格、且神主先祖大坂御陣供奉仕候」と記されている。明治に入ってからは氏子の間で式内社としての社格を求める運動が起こり、明治二七年には県知事銀林鋼男に対して式内社格確定願が出されている。
神宝として、銅鏡四面・曲玉二個・剣一口・卜部芳良の筆による社号額・天正五年銘の本地仏の阿弥陀三尊を打ち出した懸仏など多数がある。これらを納める一間社流造りの本殿もまた、側面や扉をはじめ、柱や梁などに至るまで、竜や獅子などの細かな彫刻が施されており、江戸時代中期の建築美を今に伝える貴重な文化財となっている。
このほか、当社の造営や修復を伝えるものとして、正長元年、天文二三年、寛延二年の棟札や、数多くの近世文書が存する。ただし、正長と天文の棟札は、残念ながら当時のものではなく、文政五年に複製されたもので、いずれも裏面に「文政四年已十二月舊棟札紛失ヲシル同月十九日訴社寺奉行松平周防守様御下知之上今如舊書収本宮あい矣」と記されている。
なお、中氷川神社の社号については、中武蔵にある氷川神社の意であるとか、足立郡大宮(現大宮市)にある武蔵一の宮の氷川神社と、西多摩郡氷川村(現東京都西多摩郡奥多摩町)にある氷川神社(これを上氷川神社とも称す)との中間にあることに由来するなどの説があるが、いずれの説もまだ推測の域を出ていない。
社家として代々当社の祭祀を司っている三ヶ島家は、維新前は宮野姓であり、『風土記稿』にも「神職宮野出雲」としてその名が見える。同家の祖は、藤原時平であると伝え、その次男の行平が天慶元年に当地に居住して以来、代々神職を務め、昭和五五年に逝去した信で二六代を数えたが、現在は市内糀谷の八幡神社を本務社とする中義智が奉仕している。(「埼玉の神社」より)


中氷川神社所蔵の文化財

  • 銅製三尊懸仏(所沢市指定文化財)

銅製三尊懸仏

この懸仏は直径四〇・五センチメートル、高さ三〇・四センチメートルあり、円形の銅板表面には、中央に聖観音、右に阿弥陀、左に釈迦の三尊を鋳出し、三尊はそれぞれ蓮台にのり、円形光背をつけています。また上部には釣り下げるための釣り下げるための釣手耳があり、背面は表面の突出によって凹んでいます。
古くより中氷川神社に伝えられた神仏習合信仰の遺品であり、表面には「武州入東郡宮寺郷三ヶ嶋村。天正五年九月吉日、林泉坊、願主新左衛門」等の銘文があります。
当市はもとより、埼玉県下でも数少ない貴重な文化遺産です。(所沢市教育委員会掲示より)

中氷川神社の周辺図

関連項目
  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)