鶴ヶ曽根上久伊豆神社。八潮市鶴ヶ曽根の神社

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鶴ヶ曽根上久伊豆神社。八潮市鶴ヶ曽根の神社

鶴ヶ曽根上久伊豆神社の概要

鶴ヶ曽根上久伊豆神社は、八潮市鶴ヶ曽根にある久伊豆神社です。鶴ヶ曽根上久伊豆神社は、文禄3年(1594)に創建したと伝えられます。江戸期には鶴ヶ曽根村の鎮守社だったいい、明治6年には村社に列格していたといいます。

鶴ヶ曽根上久伊豆神社
鶴ヶ曽根上久伊豆神社の概要
社号 久伊豆神社
祭神 大己貴命
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 八潮市鶴ヶ曽根1941
備考 旧鶴ヶ曽根村鎮守



鶴ヶ曽根上久伊豆神社の由緒

鶴ヶ曽根上久伊豆神社は、文禄3年(1594)に創建したと伝えられます。江戸期には鶴ヶ曽根村の鎮守社だったいい、明治6年には村社に列格していたといいます。

新編武蔵風土記稿による鶴ヶ曽根上久伊豆神社の由緒

(鶴ヶ曽根村)久伊豆社
村の鎮守なり、薬王寺の持、下同じ(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による鶴ヶ曽根上久伊豆神社の由緒

久伊豆神社<八潮市鶴ヶ曾根一九四一(鶴ヶ曾根字屋敷添)>
市の東を流れる中川は古利根川とも呼ばれ、寛永年間(一六二四-四四)まで利根川の本流であった。当地はかつての利根川の自然堤防上に発達した集落である。
鶴ケ曾根の名は、至徳四年(一三八七)の「大中臣長房譲状」(香取文書)に見え、往時「鶴ケ曾根の関」と呼ばれる関所があったことがわかる。また、当地には文保年間(一三一七-一九)のものをはじめ数多くの板碑が現存することから、開発の古さがうかがえる。
当社は、貞享元年(一六八四)四月の「鶴ケ曾根医王寺年貢除地願書(控)」に「久居頭、中興文禄三甲午年(一五九四)尭遍法師建立仕、当子ノ年迄九拾壱年」(清勝院文書)とあり、中興とあることから、これ以前の創建であったことがわかる。
『風土記稿』鶴ヶ曾根村の項に「久伊豆社、村の鎮守なり、薬王寺の持」とあり、薬王寺(現在の医薬寺)が、当社の別当として社務に当たっていた。その後、明治初年の神仏分離政策により、当社は薬王寺の管理を離れ、同六年に村社に列せられた。
また、鶴ケ曾根は、上(鶴一)・下(鶴二)に分かれ、それぞれに久伊豆神社が祀られており、上の社は当社で、下は『風土記稿』に宝幢寺内の久伊豆社として記載されていた社である。なお、口碑によると、上の神社が本家で下の神社はイエモチ(分家)であるという。(「埼玉の神社」より)


八潮市教育委員会掲示による鶴ヶ曽根上久伊豆神社の由緒

久伊豆神社は、文禄三年(一五九四)の勧請といわれ、大己貴命を祭神とする。近世期の久伊豆神社は、鶴ヶ曽根村の鎮守として祭祀され、真言宗薬王寺が別当を務めてきた。
明治元年の神仏分離令で独立社となり、同六年に鶴ヶ曽根村の村社に指定された。当時の社殿は間口一間、奥行一間の本殿だけであったが、同二十五年本殿と拝殿が再建され、現在に至っている。
当時社境内には昔から松が多く植えられていた。明治四十年の八條唱歌に「右は久伊豆 松繁み 夏の盛りも暑からず」と歌われるほどであった。現境内の松の根からは、往時の松の大樹を偲ぶことができる。
久伊豆神社の祭礼は、一月二十日の弓ぶりと四月二十日の蛇ねじりがある。弓ぶちは、お歩射行事で、的のあたり具合で豊凶を占う的神事である。蛇ねじりは、辻切りと苗代づくりのあとの雨乞い行事である。藁で作られた長さ十メートルほどの蛇を、村北入口の中川土手の草むらに置き、降雨を祈願している。鶴ヶ曽根には久伊豆神社が二社あり、当社は上の鎮守で、下の鎮守は宝幢寺脇に勧請されている。下の蛇は下妻道の愛宕社跡の木に絡ませて、村の安穏を祈願している。(八潮市教育委員会掲示より)


鶴ヶ曽根上久伊豆神社所蔵の文化財

  • 弓ぶち(埼玉県選択無形民俗文化財)
  • 鶴ヶ曽根上久伊豆神社のまつり(市指定無形民俗文化財)
  • 蛇捩り(市指定無形民俗文化財)

弓ぶち

毎年一月二十日に行われる弓ぶちは、一年間の吉凶を占うお歩射行事で、市指定の外に県指定選択民俗文化財「八潮市のオビシャ」として選定される。弓ぶちの祭礼の準備は、大組・中組・小組に別れ弓矢や的が造られる。そして神饌とともに神前に供え、祭式が執り行われ、当番渡し終了後、ただちに鬼の絵や「鬼」と書いた的に矢を射り、その年の吉凶を占う。その後、各組の宿において大盤振舞いのもてなしを受ける。オビシャ行事は、広く八潮地方で行われてきたが、宿にての直会が少なくなった中で、上組は往時の歩射形態を良く継承する。(八潮市教育委員会掲示より)

鶴ヶ曽根上久伊豆神社のまつり

久伊豆神社は、文禄三年(一五九四)の勧請といわれ、大己貴命を祭神とする。近世期の久伊豆神社は、鶴ヶ曽根村の鎮守として祭祀され、真言宗薬王寺が別当を務めてきた。
明治元年の神仏分離令で独立社となり、同六年に鶴ヶ曽根村の村社に指定された。当時の社殿は間口一間、奥行一間の本殿だけであったが、同二十五年本殿と拝殿が再建され、現在に至っている。
当時社境内には昔から松が多く植えられていた。明治四十年の八條唱歌に「右は久伊豆 松繁み 夏の盛りも暑からず」と歌われるほどであった。現境内の松の根からは、往時の松の大樹を偲ぶことができる。
久伊豆神社の祭礼は、一月二十日の弓ぶりと四月二十日の蛇ねじりがある。弓ぶちは、お歩射行事で、的のあたり具合で豊凶を占う的神事である。蛇ねじりは、辻切りと苗代づくりのあとの雨乞い行事である。藁で作られた長さ十メートルほどの蛇を、村北入口の中川土手の草むらに置き、降雨を祈願している。鶴ヶ曽根には久伊豆神社が二社あり、当社は上の鎮守で、下の鎮守は宝幢寺脇に勧請されている。下の蛇は下妻道の愛宕社跡の木に絡ませて、村の安穏を祈願している。(八潮市教育委員会掲示より)

蛇捩り

毎年四月二十日に行われる蛇捩りは、神社境内において藁蛇を作り、ムラ入り口において悪霊や悪疫などがムラへ入り込むのを防ぐツジギリ(辻切り)行事である。上組で造った藁蛇は、八條と鶴ヶ曽根境の中川堤(下妻道)沿いに祀る。往時は土手脇の松に蛇をからませていたと伝える。特に上組では、この日をネーマヅクリ(苗間作り)のタネマキショウガツ(種蒔き正月)と呼んで、ゴモクムスビ(五目むすび)を作り、神前に供えて稲苗の生育及び五穀豊穣を祈願する。藁蛇祭祀は、八潮地方で広く行われて来た行事であったが、簡素化され行われなくなった行事の中で、上組では古い祭礼形態を良く伝える。(八潮市教育委員会掲示より)


鶴ヶ曽根上久伊豆神社の周辺図