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浅間神社。草加市瀬崎町の神社

浅間神社の概要

浅間神社は、草加市瀬崎町にある浅間神社です。浅間神社の創建年代は不詳ですが、他所に祀られていた当社を明暦年間(1655-1657)当地へ遷座したといいます。明治6年村社に列格、明治40年・明治42年に周辺の無格社9社を合祀したといいます。

浅間神社
浅間神社の概要
社号 浅間神社
祭神 木花開耶姫命
相殿 -
境内社 椚稲荷大明神
祭日 -
住所 草加市瀬崎町500
備考 旧村社



浅間神社の由緒

浅間神社の創建年代は不詳ですが、他所に祀られていた当社を明暦年間(1655-1657)当地へ遷座したといいます。明治6年村社に列格、明治40年・明治42年に周辺の無格社9社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による浅間神社の由緒

(瀬崎村)浅間社
村の産神とす、善福寺持、下並同じ。
末社、浅間稲荷疱瘡合社、(新編武蔵風土記稿より)


浅間神社所蔵の文化財

  • 富士浅間神社本殿(市指定有形文化財)
  • 富士浅間神社手洗石の高低測量几号

富士浅間神社本殿

富士浅間神社は、木花開耶姫命を祭る。神社創建年次は明らかではないが、「新編武蔵風土記稿」によると、「浅間社、村の産神とす。善福寺持」とある。別当の善福寺は、寺伝によると、「寛永四年(一六二七)の開基にして、この浅間神社は、他の場所に祭られていたのを、明暦年間(一六五五~一六五七)に、現在地に移建した」と伝えられている。
現本殿は、天保十三年(一八四二)に再建されたことが本殿内にある御宝珠銘からわかる。
富士山は古くから霊山として山岳信仰の対象となり、中世になると、富士行人と呼ばれる本山派修験の人たちが中心となり、一般民衆を引率して富士登山を行った。江戸時代になると、富士講の開祖と崇められた、角行東覚が出るに及んで、各地域に講が組織され、先達を中心とした講中が一団となって登山するようになっていった。
本殿の建物は、間口二・三二メートル、奥行三・六〇メートルの流造の一間社で、前面に軒唐破風、千鳥破風を配し、随所に彫刻を配し、贅を尽くしたものである。これは当時この地方に繁栄した、和晒・形付・紺屋等のゆかた染関連の業者と地元が協力し、この地の富士講が面目にかけて造営したものと思われる。
この本殿が造営された天保(一八三〇~一八四三)ごろは、構造材に波紋などを彫刻するだけでなく、その間に花鳥風月や日本の神話、中国の故事等を題材とした写実的な彫刻物で装飾することが盛んに行われた。内部は簡素であるが、外観を中心にした、いわゆる見せる社殿としての傾向が強くなった。この建物もその例外ではない。
現在では、このような豊富な彫刻を配した神社建造物は少なく、特にこの地域での社寺建築の装飾を研究する上からも重要なものである。(草加市教育委員会掲示より)

富士浅間神社手洗石の高低測量几号

慶応元年(1865)銘のある手洗石に刻まれている「」の記号は、「高低測量几号」といい、水準点を示します。
内務省地理寮が明治九年(1876)八月から一年間、イギリスから招聘した測量技師の指導のもと、東京塩釜間の水準測量を実施したとき、一の鳥居際(現在、瀬崎町の東日本銀行草加支店近く)の境内末社、下浅間神社の脇に置かれていた手洗石に、この記号が刻まれました。
当時、測量の水準点を新たに設置することはせず、主に既存の石造物を利用していました。市域でも二箇所が確認されています。この水準点が刻まれた時の標高は、三・九五三メートルです。測量の基準となったのは霊巌島(現在の東京都中央区新川)で、そこの平均潮位を零メートルとしました。
その後、明治十七年(一八八四)に、測量部門はドイツ仕込みの陸軍省参謀本部測量局に吸収され、内務省の測量結果は使われることはありませんでした。
以後、手洗石も明治四十年代(一九〇七~一九一二)と昭和七年(一九三二)に移動し、記号にも剥落が見られますが、この几号は、測量史上の貴重な資料であるといえます。(草加市教育委員会掲示より)


浅間神社の周辺図


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