中新田神明社。鶴ヶ島市中新田の神社

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中新田神明社。高篠庄兵衛が村の鎮守として勧請

中新田神明社の概要

中新田神明社は、鶴ヶ島市中新田にある神社です。中新田神明社は、浅羽城主末裔で中新田村を開発した高篠庄兵衛が村の鎮守として慶安2年(1649)に勧請したといい、明治維新後村社に指定され、明治40年字東山の稲荷社、字大山の山の神、字愛宕の愛宕社を合祀しています。

中新田神明社
中新田神明社の概要
社号 神明社
祭神 天照大御神
相殿 -
境内社 山神愛宕稲荷合殿
祭日 -
住所 鶴ヶ島市中新田180
備考 -



中新田神明社の由緒

中新田神明社は、浅羽城主末裔で中新田村を開発した高篠庄兵衛が村の鎮守として慶安2年(1649)に勧請したといい、明治維新後村社に指定され、明治40年字東山の稲荷社、字大山の山の神、字愛宕の愛宕社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による中新田神明社の由緒

(中新田村)
神明社
村の鎮守村持。
稲荷社、天王社。
-
稲荷社
-
愛宕社(新編武蔵風土記稿より)

「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」による中新田神明社の由緒

創立年紀は不詳であるが、社伝によると、慶安二年(一六四九)に中新田村を開発した浅羽城主の末裔高篠庄兵衛によって勧請されたとある。この時、稲荷、愛宕、山之神の三社も勧請されたという。当社の東方二〇メートルの所に清林寺という寺があったが、明治期に廃寺になったと伝えられる。
明治四〇年に、字東山の稲荷社、字大山の山の神、字愛宕の愛宕社を合祀した。(「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」より)

「埼玉の神社」による中新田神明社の由緒

神明神社<鶴ケ島町中新田一八〇(中新田字中方)>
当地は高麗郡浅羽庄に属した。社伝によると社の始まりは、「往古、内大臣藤原伊周公の一子武蔵守の後裔浅羽下総守小田原陣に戦没し、居城である浅羽城も落城、家系の廃絶を恐れた長子左京は、秩父高篠山に潜んで名を高篠隼人と改め時節の到来を待つうち宿願かない、元和九年故山に帰って高篠三家を再興する。高篠喜一・俊・辰生の先祖である。村も治る慶安二年に喜一家の祖が愛宕神を、俊の祖が稲荷神を、辰生の祖が伊勢神を、それぞれ勧請して家の神とする。これを当社の創め云々」とある。また『武州高麗郡中新田村家伝集』に「慶安二年第六殿御縄入相成上新田唱ヒ、小六殿中新田ト唱、庄兵衛永久両村支配役仰付、左兵衛ノ氏神稲荷神明勧請申ス、愛宕山之神都合四ケ所勧請申ス、別当宝蔵院、氏寺清林寺也、延宝二甲寅年三月二十六日、高篠隼人死ス」とある。
氏寺であるといわれる清林寺は、当社の東二〇〇メートルほどにあったが明治期廃寺となると伝える。ただし『風土記稿』には「神明社 村の鎮守、村持」とのみある。
『明細帳』に「当社古記録等伝フル無ク創立年紀詳カナラズ明治五年村社ニ列ス、明治四十年十二月廿四日同大字字東山稲荷社、字大山ノ山の神、字愛宕ノ愛宕社ヲ合祀スル」とある。合祀跡地は当社で所有し小作地としていたが、農地開放により失った。(「埼玉の神社」より)


中新田神明社の周辺図


参考資料

  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」