v
猫の足あとによる坂戸市・鶴ヶ島市の寺院、神社、観光名所など坂戸市・鶴ヶ島市の寺社案内 猫の足あとによる坂戸市・鶴ヶ島市の寺院、神社、観光名所など坂戸市・鶴ヶ島市の寺社案内
猫の足あと

勝呂神社。坂戸市石井の神社、旧村社

勝呂神社の概要

勝呂神社は、坂戸市石井にある神社です。勝呂神社は、第十代崇神天皇代に当地を拠点にして活躍した四道将軍の一人建渟河別命が当地古墳に祀られ、寛和2年(986年)、陵墓上に北陸鎮護の神として知られる加賀の白山比咩神社の分霊を勧請して創建したといいます。源義家の奥州征伐の際にも当社を参詣、武蔵七党村山党に属した須黒(勝呂)氏は当社を氏神として厚く信仰、建保元年に社殿を再営、社号を勝呂白山権現と改めたといいます。江戸期には徳川家光より社領5石の御朱印状を慶安2年(1649)拝領、明治維新後には白山神社と改号、石井村の村社となり、明治42年には地内の無格社一五社を合祀、社号も古来の地名より勝呂神社と改めたといいます。

勝呂神社
勝呂神社の概要
社号 勝呂神社
祭神 菊理姫命・伊奘諾尊・伊奘冉尊
相殿 建渟河別命・豊入彦命
境内社 勝實稲荷社、金守稲荷社、八幡社、熊野権現、箭弓稲荷、氷川社
祭日 -
住所 坂戸市石井226
備考 -



勝呂神社の由緒

勝呂神社は、第十代崇神天皇代に当地を拠点にして活躍した四道将軍の一人建渟河別命が当地古墳に祀られ、寛和2年(986年)、陵墓上に北陸鎮護の神として知られる加賀の白山比咩神社の分霊を勧請して創建したといいます。源義家の奥州征伐の際にも当社を参詣、武蔵七党村山党に属した須黒(勝呂)氏は当社を氏神として厚く信仰、建保元年に社殿を再営、社号を勝呂白山権現と改めたといいます。江戸期には徳川家光より社領5石の御朱印状を慶安2年(1649)拝領、明治維新後には白山神社と改号、石井村の村社となり、明治42年には地内の無格社一五社を合祀、社号も古来の地名より勝呂神社と改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による勝呂神社の由緒

(石井村)
勝呂白山社
御朱印五石は慶安二年賜へり、祭神菊理姫と云、村の鎮守なり、寛永十九年再建の棟札あり、社地は墳墓の如し、高さ五間許、思ふに往昔勝呂氏祖先の墳墓にてもあるか、今傳へなければ詳ならず。
末社。稲荷社、八幡社、春日社、天満宮、牛頭天王社。
神職岡野越中。社の傍に住す、塚越村勝呂雅楽が配下なり。

天神社
別當神宮寺は大智寺の門徒、天神山と號す、境内入口に貞治二年の碑あり。

稲荷社
大智寺の持。

神明社
岡野越中の持。

愛宕社
宗福寺の持。

六所明神社
神明社三宇
神明稲荷諏訪合社
稲荷社二宇
辨天社
鹿島社
疱瘡神社
以上の十社、凡て村民の持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による勝呂神社の由緒

勝呂神社<坂戸市石井二二六(石井字勝呂)>
鎮座地石井は、坂戸台地の北端部に位置する農業地帯である。その地内には奈良時代前記の寺跡である勝呂廃寺後や、平安時代の館跡である勝呂屋敷、また三〇基近い古墳もあるところから察して、かなり古い時代から有力な豪族がこの地に住んでいたものと思われる。当社は『風土記稿』に「社地は墳墓のごとし、高さ五間許、思ふに往昔勝呂氏祖先の墳墓にてもあるか、今伝へなければ詳ならず」とあるように、勝呂神社古墳の墳丘上に祀られており、境内には老松・老杉が繁茂し、神さびた雰囲気を醸し出している。
社記では、当社の創建について次のように伝えている。
崇神天皇の時代に四道将軍となった建渟河別命は東夷平定にあたり、この地を本拠に活躍した。命は、その功を遂げると都へ戻ったが、後年再び来住して、村人たちの文化を高めた。命が薨ずると、村人たちは広大な陵墓を築き、東北鎮護の神としてここに命を奉斎した。これが今日の勝呂神社古墳である。
寛和二年、命の陵墓の上に北陸鎮護の神として知られる加賀の白山比咩神社の分霊が祀られ、郷人に厚く信仰されるようになっていった。
その後、鎮守府将軍として奥州の逆徒追討に向かった源義家は、建渟河別命の故事に倣い、当社に参詣して戦勝を祈念したところ、霊験あり凱陣の際に報賽し、延喜五年に社領を定めたという。
武蔵七党の村山党に属した須黒(勝呂)氏は、鎌倉時代には『吾妻鏡』にその名を残すほどの勢力となっていた。とりわけ須黒太郎恒高は、当社を氏神として厚く信仰し、社領を加増するとともに、建保元年に社殿を再営し、社号を勝呂白山権現に改めた。
江戸時代においては、三代将軍家光から慶安二年に五石の朱印状を受け、以後代々の将軍により社領安堵されるとともに、地頭より、毎年「玄米一谷永七五文供米一俵」が祭粢料として寄進された。
寛永一九年には郷人すべての崇敬の志を集めて立派な社殿が再営された。現在の本殿(一間社流造り)は、この時建立されたもので、延宝九年に修復がなされている。
明治に入り社号を白山神社と改め、石井村の村社となり、明治四二年には地内の無格社一五社を合祀したのを機に、社号も古来の地名をとり勝呂神社として、現在に至っている。
主祭神は菊理姫命・伊奘諾尊・伊奘冉尊で、建渟河別命・豊入彦命の二柱を配祀している。
祀職の仲富家は、天文年間(一説には永禄年間)、丹後国の宮津から当地に移り住み、以後代々神職として当社に奉仕してきた。同家は古くは天宿姓であったが、元禄年間より岡野姓を名乗り、更に明治三年に仲富姓に改め、現在の当主・良作で二七代を数える旧家である。(「埼玉の神社」より)


坂戸市教育委員会掲示による勝呂神社の由緒

勝呂神社の社は、大きな円墳の上に建っています。石段を登り拝殿前から見渡すと、景色の良さに驚きます。加賀国(石川県)の一宮である白山比咩神社が祀られていることから、「白山さま」とも呼ばれ地域の信仰を集めています。
円墳は高さが四・二メートルもあり、拝殿の脇には石室の一部とみられる大きな川原石が露出しています。
神社が鎮座する石井の地は、縄文時代から人が住んだ痕跡が認められ、古墳時代から中世には入間郡の中心として発展しました。豊かな自然と肥沃な大地に恵まれ、早くから人々の生活が営まれてきました。
神社の記録によれば、第十代崇神天皇の時代に伝説上の人物と言われる四道将軍の一人、建渟河別命が勝呂神社古墳に葬られていると伝わっています。直径およそ五十メートル、高さ四・二メートルの円墳に、東海鎮護の神としてお祀りし、千年以上も前から神地として崇拝されてきました。
寛和二年(九八六年)、古墳の上に北陸鎮護の神として知られる加賀一宮白山比咩神社の御分霊が勧請されました。その後、武蔵七党の村山党に属した須黒太郎恒高が勝呂に本拠を構え、建保元年(一二一三年)には社殿を再営して勝呂白山権現としました。
明治時代に社号を白山神社と改め、明治四十二年(一九〇九年)に現在の勝呂神社になりましたが、今も「白山さま」として信仰を集めています。
発掘調査の成果では、神社の東を東山道武蔵路が通っていたことが確認され、七世紀後半に建立された埼玉県最古の寺院の一つ勝呂廃寺との関連も注目されています。(坂戸市教育委員会掲示より)

勝呂神社の周辺図

参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)