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永福寺。さいたま市桜区神田にある真言宗智山派寺院

永福寺の概要

真言宗智山派寺院の永福寺は、辨瀧山多聞院と号します。永福寺の創建年代等は不詳ですが、元本寺林光寺の伝によれば延徳元年(1489)の創建といいます。その後秀雅(延宝4年1676年寂)が中興、享保6年(1721)徳川家重の戒名(惇信院殿)を避けるため、寺号を長福寺から永福寺へ改めたといいます。北足立八十八ヵ所霊場23番です。

永福寺
永福寺の概要
山号 辨瀧山
院号 多聞院
寺号 永福寺
住所 さいたま市桜区神田726
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 -



永福寺の縁起

永福寺の創建年代等は不詳ですが、元本寺林光寺の伝によれば延徳元年(1489)の創建といいます。その後秀雅(延宝4年1676年寂)が中興、享保6年(1721)徳川家重の戒名(惇信院殿)を避けるため、寺号を長福寺から永福寺へ改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による永福寺の縁起

(神田村)永福寺
辨瀧山多聞院と號す、新義真言宗、植田谷本村林光寺の末、當寺の號もとは長福と書しが、惇信院殿の御幼名を避けて、享保六年永の字にかきかへしとなり、寺傳に開山は弘法大師といへど、是は宗祖を崇めて開山と稱するまでにて、大師の親ら草創すといふにはあらざるべし、本山林光寺の傳へによれば、延徳元年の起立なりと云、是實を得たるに似たり、中興の僧を秀雅と云、延寳四年十一月八日化す、本尊正観音は毘首羯摩が作と云、又智證大師の彫刻せる不動を安ず、境内に五輪の塔あり、畠山次郎重忠の墓碑なりと云、文字剥落して讀がたく、且石の様其頃のものとも見えざればうけひがたし、されど土俗の傳へに、この水判土庄の内は重忠が舊領の地なる由、又近村道場村に其城迹といふものあれば、此邊重忠のゆかりなきにもあらず、若くば重忠追福の為として、後に家臣等の造立せしものなるも知るべからず、又傍に永和四年十月十三日と彫し、古碑一基立り、是を仁田四郎忠常が碑なりと傳ふれど、忠常は建仁三年九月六日鎌倉に於て戦死せし人にて、年代も大に齟齬すれば、傳への誤れるなるべし。
辨天社
八臂の辨天にて弘法大師の作と云、社を續りて小池あり、池中に葭竹といへるもの生茂れり、この葭始めて生るときは、尋常の葭とことならず、冬に及び枝葉は枯れて幹はかれず、春に至り又其舊幹へ枝葉を生ず、其大なるは葭竹と云ものの如し、傳へ云往昔在原業平東國下向の砌、當社に参籠して歌道の繁栄を祈り、自ら持る所の筆を池中にさしたりしに、其筆根をさし枝葉を生じてより、今に其種類のこりて繁茂せりと云、又の傳へに大同念中弘法大師當國行脚のとき、ここに来りて佛法興隆の為加持せられしにより、かくの如しと共に信じがたき説なれど、姑く傳のままを記せり、これ恐らくは葭の異品にして、ままあるものなるを種々に牽強し、かく希有の説を傳ふるにあらずや。
阿弥陀堂。 (新編武蔵風土記稿より)


永福寺の周辺図


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参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」