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清河寺。さいたま市西区清河寺にある臨済宗円覚寺派寺院

清河寺の概要

臨済宗円覚寺派寺院の清河寺は、大龍山と号します。清河寺は、関東管領足利基氏(法名清河寺殿玉山品[日升]公大居士、貞治6年1367寂)が開基、圓覚寺第三十八世勅謚佛慧禅師傑翁是英大和尚(永和4年1378年寂)が開山となり正平15年(1360)に創建、足利基氏の曾孫関東公方足利持氏の命により足利家の祈願所となったといいます。徳川家康が関東入国した天正19年には寺領5石の御朱印状を拝領したといいます。

清河寺
清河寺の概要
山号 大龍山
院号 -
寺号 清河寺
住所 さいたま市西区清河寺792
宗派 臨済宗円覚寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



清河寺の縁起

清河寺は、関東管領足利基氏(法名清河寺殿玉山品[日升]公大居士、貞治6年1367寂)が開基、圓覚寺第三十八世勅謚佛慧禅師傑翁是英大和尚(永和4年1378年寂)が開山となり正平15年(1360)に創建、足利基氏の曾孫関東公方足利持氏の命により足利家の祈願所となったといいます。徳川家康が関東入国した天正19年には寺領5石の御朱印状を拝領したといいます。

新編武蔵風土記稿による清河寺の縁起

(清河寺村)清河寺
臨済宗、相模國鎌倉圓覚寺の末、大龍山と號す、古は此所より坤の方にあり、そのころは七堂伽藍等建連て、此邊の寺々すべて末寺なりしと云、今の地へ移せし年歴は詳ならず、開山は圓覚寺第三十八世佛慧禅師傑公是英にて、永和四年三月十二日示寂す、開基は左兵衛督基氏なり、貞治六年丁丑四月廿六日逝し、基氏の法號瑞泉寺殿とあり、清河は當寺のみにて追謚せし號にや、又基氏より寺領等寄進せしこと縁起にのすれど、寄附の文書はなし、應永廿九年基氏の曾孫左兵衛督持氏よりの、寄附状等は今も所持せり、其文下にのす(其文省略)、また下に出せる天文廿三年の文書に、蘆根斎とあるは其頃の住僧なりといふ、其のち享禄年中兵亂にて堂宇焼失し、什物等も悉く烏有となり、久く廢寺の如くなりしを、御打入の後天正十九年寺領五石の御朱印を賜はり、頗る建立ありしを元和年中再ひ囘禄の災に罹り、其後いつの頃か仙岩と云僧中興せりと云。
寺寶。古文書六通。
鐘楼。鐘は近き頃の鑄造なり。
観音堂。千手観音を安ず、聖徳太子の作なり、基氏當寺を建立せしも、此観音の示現によるといふ。
天神社。(新編武蔵風土記稿より)

境内石碑による清河寺の縁起

清河寺山門鐘楼再建之碑
惟れば当寺は正平十五年(一三六〇)開創され大龍山清河寺と称する。
開基 関東管領足利基氏公 尊氏公四男 法名清河寺殿玉山品[日升]公大居士 貞治六丁未年四月二十六日歿
開山 圓覚寺第三十八世勅謚佛慧禅師 傑翁是英大和尚 永和四戊午年三月十二日遷化 歸源開山
祈願所 應永二十九年関東公方足利持氏公により足利家祈願所となる。基氏公曾孫
爾来再度の火難に遭遇したが六百二十年の法燈を掲げ世代も三十二世を数えるに至った。
今次太平洋戦争の激化に伴い昭和十八年遂に梵鐘は軍に徴用されて音声を断った。(境内石碑より)


清河寺の周辺図

参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」