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清泰寺。さいたま市緑区東浦和にある天台宗寺院

清泰寺の概要

天台宗寺院の清泰寺は、慈了山覚源院と号します。清泰寺は、慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)が平安時代初期に開山したと伝えられます。江戸時代初期に当地(大牧)を領していた見性院(武田信玄の女で保科正之の養母)の墓を始めとして、当寺は多くの文化財を有しています。足立坂東三十三ヶ所霊場6番です。

清泰寺
清泰寺の概要
山号 慈了山
院号 覚源院
寺号 清泰寺
住所 さいたま市緑区東浦和5-18-9
宗派 天台宗
葬儀・墓地 清泰寺会館
備考 -



清泰寺の縁起

清泰寺は、慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)が平安時代初期に開山したと伝えられます。江戸時代初期に当地(大牧)を領していた見性院(武田信玄の女で保科正之の養母)の墓を始めとして、当寺は多くの文化財を有しています。

さいたま市掲示による清泰寺の縁起

清泰寺は、天台宗の寺で慈了山覚源院といい、平安時代初期の高僧慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)によって開かれたと伝えられている。本尊は十一面観音立像(秘仏)で、江戸時代初期の作とされている(市指定有形文化財)。
境内に並ぶ三五一基の庚申塔は、天明三年(一七八三)と万延元年(一八六〇)に建てられたもので、一括して市指定有形民俗文化財になっている。また、ここにある武田信玄の娘見性院の墓は県の旧跡に指定されている。
見性院は、穴山梅雪(武田の武将)の妻であったが夫の死後、徳川家康の知遇を得、大牧村を采地として与えられていたが、元和八年(一六二二)没して清泰寺に葬られた。見性院が養育した二代将軍秀忠の子幸松丸(後の会津二三万石の城主保科肥後守正之)は三代将軍家光を補佐し幕政で活躍した。
また、本堂須弥壇に安置されている有泉勝長木牌も市指定有形文化財である。有泉家は勝長の弟五兵衛が大牧村に居住し、子孫累代見性院の墓所に奉仕したといわれている。(さいたま市掲示より)

新編武蔵風土記稿による清泰寺の縁起

(大牧村)清泰寺
天台宗、中尾村吉祥寺末、慈了山覺源院と號す、當寺は武田信玄の女、穴山梅雪の後室見性院尼の因みあるを以て、會津家の檀越なりと云、この尼甲州歿落の後台命により江戸御城に移り、後田安の御屋敷に居住し、大牧村の内にて三百石の領地を賜れり、然るに慶長十八年三月二日幸松君三歳の御時、故ありて見性院尼に養はれ給ひ、共に田安の御邸に居住せられたり、元和三年幸松君は保科家を嗣せられ、肥後守正之君と稱し奉り、寛文十二年十二月十八日逝し、土津神社と神號せり、見性院尼は元和八年五月九日卒去して當寺に葬れり、當寺の草創は慈覚大師にして、則大師を開祖となす、中興は俊圓と云、元禄十二年九月十一日示寂す、本尊は十一面観音の立像にして、長三尺許、慈覚大師作のなりといへり。
観音堂。十一面観音を安ず、見性院尼の位牌堂なり。
見性院尼墓。墓所の傍に文化年中會津家より建し石碑あり、其文左にのす。
見性院殿武田甲斐守機山公信玄之女、穴山梅雪之夫人、穴山氏嗣絶、台廟以足立郡大牧邑為湯沐邑、元和八年五月九日終干東美也子葬邑之清泰寺、會津土津公幼承撫育之恩、追慕不巳、寛文十一年買田若干付清泰寺、使歳時作佛事而薦冥福也。(新編武蔵風土記稿より)


清泰寺所蔵の文化財

  • 見性院の墓(県指定旧跡)
  • 清泰寺の庚申塔(市指定有形民俗文化財)
  • 木造十一面観音立像(市指定有形民俗文化財)
  • 半鐘(市指定有形民俗文化財)
  • 見性院霊廟三具(市指定有形民俗文化財)
  • 有泉勝長木牌(市指定有形民俗文化財)

見性院の墓

見性院は、武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻でしたが、梅雪の死後、徳川家康に養われていました。そして二代目将軍秀忠に男子幸松丸が誕生すると、その養育を頼まれ、七歳まで育てました。幸松丸は、後に信州高遠の城主保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称しました。正之は高遠から最上へ、そして会津へと移り、二十三万石の大名となり、幕政にも参画しています。
見性院は、元和八年(一六二二)に没しました。大牧村が所領であったことから、ここ清泰寺に葬られましたが、見性院に受けた恩を忘れなかった正之は、その冥福を祈るため清泰寺に霊廟を建てました。なお、安政五年(一八五八)建立の現在の墓石は、会津藩により建てられたものです。会津の人々も、名君を育てた見性院を慕っていたことがわかります。(宗教法人清泰寺・さいたま市教育委員会掲示より)

清泰寺の庚申塔

清泰寺の境内には、垣根のように並ぶ庚申塔三百四十九基と、青面金剛像浮彫りの庚申塔一基、自然石の庚申塔一基があります。一箇所にこれだけの庚申塔がまとまって存在しているのは、非常に珍しいことです。
三百四十九基には、正面に「庚申塔」の文字と寄進者の住所氏名が陰刻されているのみです。しかし、青面金剛像の庚申塔には、右側面に「庚申五拾ヶ度供養塔」、左側面に「天明三」などの陰刻銘があります。また自然石の庚申塔には、正面に「三百 庚申塔」、台座裏面に「万延元」などの陰刻銘があります。これらにより、三百四十九基は天明三年(一七八三)と万延元年(一八六〇)とに奉納されたものであることがわかります。ただし、三百四十九基はほとんど同寸同形状のため、五十庚申と三百庚申の区別はつきません。
庚申塔の寄進の範囲をみると、市域はもとより、県南の各地から遠く東京、千葉にまで及び、当時の庚申信仰がいかに盛んであったかがよく分かります。(宗教法人清泰寺・さいたま市教育委員会掲示より)

清泰寺の周辺図


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参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」