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明照寺。さいたま市緑区中野田にある曹洞宗寺院

明照寺の概要

曹洞宗寺院の明照寺は、重殿山と号します。明照寺は、足利尊氏から当地を受領した春日八郎行元が圓福寺と称して創建、春日八郎行元の六代孫春日下総守景定が、その室月宮院慶譽明正を追福するために、大崎國昌寺二世大雲文龍を招いて当寺を中興、明正寺と号したといいます。春日下総守景定(天徳院殿朝散大夫南譽普安大居士)とその子左衛門家吉(長徳院殿傑嚴傳勝大居士)は後北條氏方の勇将で、後北條氏滅亡後、徳川秀忠に寄合御番として仕えたといいます。

明照寺
明照寺の概要
山号 重殿山
院号 -
寺号 明照寺
住所 さいたま市緑区中野田1667
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



明照寺の縁起

明照寺は、足利尊氏から当地を受領した春日八郎行元が圓福寺と称して創建、春日八郎行元の六代孫春日下総守景定が、その室月宮院慶譽明正を追福するために、大崎國昌寺二世大雲文龍を招いて当寺を中興、明正寺と号したといいます。春日下総守景定(天徳院殿朝散大夫南譽普安大居士)とその子左衛門家吉(長徳院殿傑嚴傳勝大居士)は後北條氏方の勇将で、後北條氏滅亡後、徳川秀忠に寄合御番として仕えたといいます。

新編武蔵風土記稿による明照寺の縁起

(中野田村)明照寺
曹洞宗、大崎村國昌寺末にて、重殿山と號す、本尊薬師は運慶の作にして、長一尺許、また堂中に長九寸許の毘沙門を安せり、是も同作と云、寺傳に春日八郎行元、尊氏将軍より観應三年九月十八日の下し文ありて、野田中丸を領せり、其頃當寺は圓福寺と唱へて、殊にかすかの寺院なりしが、行元六代の孫春日下総守景定、己の室月宮院慶譽明正追福のため、彼小寺を中興し、法謚の字を用ひ、改めて明正寺と號し、本山第二世大雲文龍をもて、己と同じく中興となせり、文龍は元和三年正月十八日寂し、景定は元和元年七月四日卒せり、正を照と改めし所以はしらず、今春日氏の傳によるに春日八郎行元は将軍尊氏に仕へ軍功あり故にその賞行れて尊氏より下文あり、其文に武蔵國足立郡桶皮郷内、菅谷村丸七郎跡事とのせ、観應三年九月十八日と記し、當寺には同年同日野田中丸を與へしと云傳ふれど、其こと下文及び家傳にもいはざれば疑ふべき説なれど、後に此邊をも領せしことありて斯云にや、又下総守景定は、初め岩槻の城主太田美濃守入道三楽がもとに有て、武者大将となる、其後北條氏政の招きに應じ、小田原に赴き、度々軍忠を抽す、小田原落城して後氏房に從ひ高野山に至り、又肥前國唐津に赴き、氏房卒して後に入道せり、此とき東照宮本多佐渡守正信を御使として召出され、采地千五百石を下したまふ、元和七年七月四日伏見に於て卒す、歳七十五、其子左衛門家吉も小田原にありて軍功ありしが、落城の後景定と共に氏房に從ひ、氏房没してのち父と同く召れて東照宮に謁し奉り、食禄を賜はり命によりて台徳院に仕へ奉り、寄合御番を勤と云、今當寺は春日氏代々の檀越たり、天徳院殿朝散大夫南譽普安大居士これ開基景定の法謚にして洛陽東山禅林寺に葬り、後に當寺の境内へも別に墳墓を建と云、又景定の父下総守行光は、天正四年十二月五日卒し、大泉院殿茂岳全榮庵主と號す、景定の子左衛門家吉は、寛永十六年四月二日卒して、長徳院殿傑嚴傳勝大居士と法謚せり、これも禅林寺に葬れりと、此餘代々及び氏族の位牌を置き、又中古より代々の葬地にして、各その墳墓あり。
鐘楼。寶永元年鑄造の鐘を掛り。(新編武蔵風土記稿より)


明照寺所蔵の文化財

  • 春日氏一族の墓(浦和市指定史跡)

春日氏一族の墓

春日氏は藤原氏の流れを汲む武人一族で、中世には足利氏や上杉氏、太田氏などに仕え、江戸時代には旗本(はじめ千五百石)として代々徳川氏に仕えました。知行地は足立郡内などにあり、ここ中野田村三百石もその一つでした。また、明照寺は春日景定が開基で、ここには歴代とその家族が葬られています。
郷土にゆかりのある武人の墓として、また旗本の支配を示す好資料として貴重な史跡といえます。なお春日氏の墓は市内大久保領家の大泉院や京都の禅林寺などにもあります。(明照寺・浦和市教育委員会掲示より)

明照寺の周辺図

参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」