土呂御嶽神社。さいたま市大宮区寿能町の神社

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土呂御嶽神社。土呂村の領主初鹿野昌久が勧請

土呂御嶽神社の概要

土呂御嶽神社は、さいたま市大宮区寿能町にある神社です。土呂御嶽神社は、甲州武田家の家臣で武田家滅亡後土呂へ移り住んだ土呂村の領主初鹿野昌久が、慶長5年(1600)に同氏の氏神・土呂の鎮守として勧請したといいます。明治40年土呂神明社に合祀されたものの、昭和14年復祀したといいます。

土呂御嶽神社
土呂御嶽神社の概要
社号 御嶽神社
祭神 -
相殿 -
境内社 -
住所 さいたま市大宮区寿能町2
祭日 -
備考 -



土呂御嶽神社の由緒

土呂御嶽神社は、甲州武田家の家臣で武田家滅亡後土呂へ移り住んだ土呂村の領主初鹿野昌久が、慶長5年(1600)に同氏の氏神・土呂の鎮守として勧請したといいます。明治40年土呂神明社に合祀されたものの、昭和14年復祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による土呂御嶽神社の由緒

(土呂村)
御嶽社
村の鎮守にして稲荷・天神を配祀す、慶長五年地頭初鹿野傳右衛門信昌、甲州よりうつして造せしよしの棟札あれば、古き鎮座なることしらる、村民持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による土呂御嶽神社の由緒

神明社<大宮市土呂町2-83(土呂字神明)>項
御嶽社は、慶長五年(一六〇〇)武田家の旧臣初鹿野伝右衛門信昌が、幕府より地頭として当地に所領を得て、甲州より御嶽神を勧請し武運長久の祭祀を行なったことにより始まると伝える。鎮座地は御嶽耕地である。祭りは、明治初期の『郡村誌』には「祭日三月三日」と載るが、明治四十年に当社へ合祀されたことにより一時中断され、昭和十四年一月に御嶽講を結成して再興している。現在は一月二十六日を祭日として祭典を行い、終わると宿に「甲陽御嶽神社 正八位氷川物部連福臣謹書」の軸を掛けて直会を行う。(「埼玉の神社」より)

さいたま市教育委員会掲示による土呂御嶽神社の由緒

見沼西縁歴史散歩コース
御嶽社
この社は村の鎮守で、関ヶ原の合戦があった慶長5年(1600)に土呂村の領主初鹿野昌久が甲州から同氏の氏神として勧請したものと伝えられています。初鹿野氏は甲州武田家の家臣で武田家滅亡後土呂へ移ったものです。明治40年に市民の森の北方、神明社に合祀されましたが、昭和14年1月に旧地へ新築再興されたものです。
当社のほかに初鹿野氏ゆかりの場所として、東方約50mの御嶽堂地内には三代初鹿野昌次及び昌久の子昌季の墓が、北方の地には土呂地蔵堂があり、同地周辺に陣屋を構えていたといいます。また、片柳の萬年寺には同寺を火災による荒廃から復興させた昌久が中興開基として葬られています。(さいたま市教育委員会掲示より)


土呂御嶽神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿