睦神社。さいたま市南区白幡の神社

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睦神社。当地にあった富士浅間社に諸社を合祀

睦神社の概要

睦神社は、さいたま市南区白幡にある神社です。睦神社は、当地にあった富士浅間社に、明治40年に大字浦和領別所の村社稲荷社、大字浦和領辻の村社熊野社、大字文蔵の村社神明社及び各々の境内社、大字白幡から無格社の諏訪社及び八幡社を合祀、明治42年に大字浦和領別所から無格社の神明社・十羅神社・稲荷社(三社)・第六天社(二社)を合祀、明治44年に睦神社と改称したといいます。

睦神社
睦神社の概要
社号 睦神社
祭神 -
相殿 -
境内社 八幡・阿夫利・榛名社、諏訪社、稲荷社、三峰社
住所 さいたま市南区白幡1-16-13
祭日 -
備考 -



睦神社の由緒

睦神社は、当地にあった富士浅間社に、明治40年に大字浦和領別所の村社稲荷社、大字浦和領辻の村社熊野社、大字文蔵の村社神明社及び各々の境内社、大字白幡から無格社の諏訪社及び八幡社を合祀、明治42年に大字浦和領別所から無格社の神明社・十羅神社・稲荷社(三社)・第六天社(二社)を合祀、明治44年に睦神社と改称したといいます。

「埼玉の神社」による睦神社の由緒

睦神社(白幡字上ノ台)
白幡は、現在は高層住宅や工場の立ち並ぶ市街地であるが、かつては中山道沿いののどかな農業地域であった。その村名について『風土記稿』は、天慶年中(九三八~九四七)、平将門を征伐するために藤原秀郷がしばしば陣を張り、八幡神を勧請して軍の勝利を祈った際、陣中に白幡を立てたことに由来するとの話を載せている。
当社は、この白幡の村社であった富士社(富士浅間社)に一〇の神社を合祀して成立した神社で、「睦」の社号は合祀で一つになった諸社及びその氏子が睦び和むようにとの願いを込めたものである。なおこの合祀は二回に分けて行われており、まず明治四十年六月に大字浦和領別所の村社稲荷社、大字浦和領辻の村社熊野社、大字文蔵の村社神明社及び各々の境内社、大字白幡から無格社の諏訪社及び八幡社を合祀し、次いで同四十二年十二月に大字浦和領別所から無格社の神明社・十羅神社・稲荷社(三社)・第六天社(二社)を合祀している。ちなみに、当社が睦神社と改称したのは明治四十四年のことである。
これらの諸社のうち、白幡の八幡社は、『風土記稿』白幡村の項に「八幡社 当社は天慶年中平将門征伐の時、藤原秀郷軍の勝利を祈らんが為に、勧請せしなど土人はいへり(以下略)」と載る社で、その本地仏の阿弥陀像は、明暦二年(一六五六)に倒れた神木で作ったものであったという。県立浦和商業高校は、同社の旧地に建っている。(「埼玉の神社」より)

新編武蔵風土記稿による睦神社の由緒

(白幡村)
八幡社
當社は天慶年中平将門征伐の時、藤原秀郷軍の勝利を祈らんが為に、勧請せしなど土人はいへり、本地佛彌陀を安ず、此像の背後に白幡村八幡宮の神木をもて作れる由を彫せり、こは古へ社地に十圍許の老杉ありしに、明暦二年大風に吹折れしを、土人等かかる大木の空く朽果んも憎むべきことなりとて、此像を彫刻して當社の本地佛となせしと云、醫王寺持、この下の五社もみなおなじ、
末社。三峰社
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富士浅間社
末社。石尊社、浅間社、稲荷社
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辨財天社
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神明社
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稲荷社
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稲荷社
村の東の方、街道の傍にあり
(別所村)
稲荷社三宇
二社は真福寺、一社は村民の持
十羅刹社
村民の持、土人の話に古へ此邊一圓に江河なりし比、運漕の船一艘當所にて風難にあひ、多くの人溺死せしかば、其追福に船の櫓を切て爰に埋め、其上に此社を祀れりと云傳ふ
(辻村)
熊野社
村の鎮守なり、吉祥院
末社。天神社、稲荷社、天神社
(文蔵村)
神明社三宇
二社は圓乗院持、一社は歓養院持(新編武蔵風土記稿より)


睦神社所蔵の文化財

  • 睦神社社叢(市指定天然記念物)


睦神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)