鎧宮八幡神社。さいたま市岩槻区南辻の神社

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鎧宮八幡神社。岩槻城攻撃の際に豊臣秀吉方が出陣準備をした地

鎧宮八幡神社の概要

鎧宮八幡神社は、さいたま市岩槻区南辻にある神社です。鎧宮八幡神社は、天正18年(1590)の豊臣秀吉方の岩槻城攻撃の際、当地に集結、鎧・兜を整えてから出陣したことから、慶長4年(1599)鎮祭、鎧宮八幡社と称して、辻村の鎮守社だったといい、明治維新後には村社に列格していたといいます。

鎧宮八幡神社
鎧宮八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 誉田別命
相殿 -
境内社 三峰神社、天神社、稲荷社、北辰社
住所 さいたま市岩槻区南辻68
祭日 -
備考 -



鎧宮八幡神社の由緒

鎧宮八幡神社は、天正18年(1590)の豊臣秀吉方の岩槻城攻撃の際、当地に集結、鎧・兜を整えてから出陣したことから、慶長4年(1599)鎮祭、鎧宮八幡社と称して、辻村の鎮守社だったといい、明治維新後には村社に列格していたといいます。

新編武蔵風土記稿による鎧宮八幡神社の由緒

(辻村)
鎧宮八幡社
村の鎮守なり、村民の持。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による鎧宮八幡神社の由緒

八幡神社<岩槻市南辻六八(南辻字鎧宮)>
辻村の鎮守として祀られてきた当社は、古くは、鎧宮八幡宮と称していた。この社名については、口碑に、天正十八年(一五九〇)に、豊臣秀吉の小田原征伐の際、岩槻城に立て籠もる北条方に対し、秀吉方は当社で鎧・兜を整えてから出陣したことにちなむと伝え、当地はその時、岩槻城攻めの東軍の集結地となっていた。なお『明細帳』によれば、当社は「慶長四年(一五九九)六月十四日鎮祭」という。
また、伝説として、次の話もある。水嵩の増した元荒川を前にして、秀吉方の軍勢が岩槻城を攻めるのに攻めあぐね、一呼吸置いて休んでいたところ、白馬に乗った人物が川を渡ったのと見て、八幡神社の前が浅いということがわかってしまい、それがもとで城は攻め落とされてしまった。この時、白い馬に乗って川を渡ったのは、辻の八幡様で、総攻撃が近いことを岩槻城内に知らせようとしたわけであるが、かえって仇になってしまった。
『風土記稿』辻村の項に「鎧宮八幡社 村の鎮守なり、村民の持」とだけあるが、当社の本殿の屋根の上部には卍の紋があり、寺院の関与があったことがうかがわれる。これは、当社から西に五〇〇メートルほど離れた日の出町にある曹洞宗寺院の竜門寺が祭祀に関与していた事による。しかし、通常は、地元曾根家や関根家など、祈祷の出来る人が祀職を務め、神仏分離後も、戦前はこうした人達が神職を務めた。(「埼玉の神社」より)

「さいたま市史料叢書6」による鎧宮八幡神社の由緒

村社八幡社(南辻)
埼玉県武蔵国南埼玉郡慈恩寺村大字南辻字鎧宮
村社八幡社
一祭神 誉田別命
一由緒 慶長四年六月十四日鎮祭、明治六年四月中村社申立済
一社殿 本殿 拝殿
一境内 百七拾七坪
一崇敬者 「三十六戸」
境内神社
三峰神社
祭神 伊弉諾命、伊弉冉命
由緒 不詳
社殿 本殿
天神社
祭神 菅原道真公
由緒 不詳
社殿 本殿
稲荷社
祭神 倉稲魂命
由緒 不詳
社殿 本殿
北辰社
祭神 天之御中主之命
由緒 不詳
社殿 本殿(「さいたま市史料叢書6」より)


鎧宮八幡神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)
  • 「さいたま市史料叢書6」