太田諏訪神社。さいたま市岩槻区太田の神社

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太田諏訪神社。岩槻城主阿部正次が元和9年に勧請

太田諏訪神社の概要

太田諏訪神社は、さいたま市岩槻区太田にある神社です。太田諏訪神社は、岩槻城主阿部正次が、戦時の備えに軍神として信濃国(現長野県)諏訪上社を元和9年(1623)に勧請奉斎したといいます。

太田諏訪神社
太田諏訪神社の概要
社号 諏訪神社
祭神 建御名方命
相殿 -
境内社 -
住所 さいたま市岩槻区太田1-10-59
祭日 -
備考 -



太田諏訪神社の由緒

太田諏訪神社は、岩槻城主阿部正次が、戦時の備えに軍神として信濃国(現長野県)諏訪上社を元和9年(1623)に勧請奉斎したといいます。

新編武蔵風土記稿による太田諏訪神社の由緒

(岩槻城並城下町)諏訪社
諏訪小路門の内にあり。(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県・岩槻市掲示による太田諏訪神社の由緒

諏訪神社の祭神は、岩槻城守護の軍神として信濃国諏訪上社より勧請した建御名方命で、当社は、市内にある久伊豆神社八幡神社、天満宮とともに城主や家臣の祈願所となっていた。
当社の創立年代は不明であるが、阿部氏在城当時の武州岩槻城絵図では、現在の地にすでにその存在が書かれているので、それ以前か、あるいは岩槻城が築城されたとき、北方に鎮座する久伊豆神社と同様、鬼門除けとして創建されたものと思われる。
当時、神社の運営は大字太田の旧大岡氏家臣を中心とした氏子によって行われていたと伝えられるが、現在は当地区自治会の人々によって行なわれている。
なお、祭礼は毎年八月二十七日である。(埼玉県・岩槻市掲示より)

「埼玉の神社」による太田諏訪神社の由緒

諏訪神社<岩槻市太田一-一〇-六一(太田字諏訪小路)>
長禄元年(一四五七)に太田道灌が築城した岩槻城は鶴の形に似ていることから「白鶴城」とも呼ばれ、その周囲には「小路」と呼ばれる城下の町並みが形成された。当社の鎮座する諏訪小路も、そうした侍屋敷の立ち並ぶ町並みの一つであり、城の大手門の南東に当たる。
社伝によれば、当社が、この岩槻城に祀られたのは元和九年(一六二三)のことで、時の城主・阿部正次が、戦が再び始まった時の備えに軍神として信濃国(現長野県)諏訪上社を勧請したことによる。以後、城主の崇敬が厚く、家臣一同の武術鍛錬の祈願所でもあった。江戸期の祭祀状況については、『風土記稿』には「諏訪社 諏訪小路門の内にあり」と記されているだけであるが、祭事の際に向拝部に掛けられる正福寺のものとされる嘉永七年(一八五四)び垂旗に「当寺廾世法印純海」の銘があるため、神仏分離までは当社の西隣にあった天台宗の正福寺が祭祀を行っていたものと思われる。
このように、当社は岩槻城と深いかかわりがあったため、明治になって岩槻城が廃城となってからは、しばらく放置状態が続き、社殿も荒廃し、祭りも途絶えていたようである。そこで、地元の太田町の有志が浄財を集め、明治十一年に祭事を復活し、明治二十五年には覆屋を茅葺きから瓦葺きに改めた。こうして、当社は地元の神社として新旧住民から広く親しまれるようになり、現在に至っている。(「埼玉の神社」より)


太田諏訪神社所蔵の文化財

  • 太田諏訪神社本殿(さいたま市指定有形文化財)

太田諏訪神社本殿

太田諏訪神社本殿は、岩槻区太田一丁目に所在する建造物です。一七世紀前半の建築的特徴をよく残しており、江戸時代前期(一六三九)に遡る数少ない神社建築です。
さいたま市域における神社建築の展開や地域相を明らかにする上で貴重なものであることから、市の有形文化財(建造物)に指定されました。(より)

太田諏訪神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)