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吹上観音東明寺。和光市白子にある臨済宗建長寺派寺院

吹上観音東明寺の概要

臨済宗建長寺派寺院の東明寺は、福田山と号し、吹上観音として有名です。東明寺は、天平年間に行基菩薩が観音堂(吹上観音堂)として開創、その後普明春屋国師(1312-1388)が別当寺として東明寺を開山したといいます。その後無住となり金泉寺が建住していたところ、僧浄西が再興したといいます。

東明寺
東明寺の概要
山号 福田山
院号 -
寺号 東明寺
本尊 釈迦如来像
住所 和光市白子3-14-13
宗派 臨済宗建長寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



東明寺の縁起

東明寺は、天平年間に行基菩薩が観音堂(吹上観音堂)として開創、その後普明春屋国師(1312-1388)が別当寺として東明寺を開山したといいます。その後無住となり金泉寺が建住していたところ、僧浄西が再興したといいます。

新編武蔵風土記稿による東明寺の縁起

(下新倉村)吹上観音堂
境内一町四方許、年貢地、吹上にある故にこの号あり、本堂八間四面東向なり、観音を安す、毎年二月十八日観音の輿出て、この日遠近の男女群衆市をなせり、又七月十日・十二月十日・十八日の三日には彼輿は出ざれども、市をなすこと二月と同じ、是を吹上の市といへり、縁起に載る所は、天平年中行基菩薩此地巡行ありし時、土地の形佛法繁栄の相ありとて、自ら天竺の椋の木にて丈八寸の観音の立像を彫刻し、赤池の側に一宇を建て安置せり、其後多くの年歴を経、普明国師東明寺を開基し、別当寺とせしに、続に三世にして主僧絶にければ、本尊佛は同村金泉寺へ移し置ぬ。其後長く廃寺となりしが、元禄の始信州の道信者浄西と云者、幼稚の時より両脚の病あいて行歩になやみければ、かの病平癒の祈願を起し、佛道に帰依して信心怠らざりける、かくて浄西秩父の観世音へ巡拝せしと、たまたま当村の金泉寺へ投宿し、観音の名号を唱へ、いばしまどろみしに、はからずも此吹上観音の霊夢を得、一七日の間に病平癒しければ、浄西歓喜の余此所にとどまり、かの観音の堂宇を再興せんことを思ひおこし、近郷を勧化しければ、程なくその功なりぬ。本尊は古佛にして損壊せしかども、行基菩薩の作佛なれば、憚りて別に二尺三寸の木像を彫刻し、古佛をば腹内にこめて安置しける、是より霊験いちじるしく、土人の渇仰大方ならず、かかる故にや、一年近郷厄病流行せし時も、当村は一人もこの病にをかさるるものなかりしとぞ、又安永五年十二月十日夜二更の頃、内陣より回禄の災起りしに、例年の市たつ日なれば、在あふ商人等かけより本尊を守護せしに、はや堂内黒烟立覆ひければ、せん方もなかりける、かくては靈像も空しく灰塵となりけんと、皆人なげきしに、夜明るに及び火減たりければ、村民伊三郎と云もの灰をかきわけしに、其中より光明を放ちしにぞ、靈佛のまします処はしりぬ、、折しも一そそぎの雨ふり、笠を戴てありしが、驚き脱ぎすててかの尊像を取上見るに、左の御手右の御足少しく焼損じ、頭髪のあたりも亦そこねたり、されど火の中にありて不測に免れたまひしこと、これしかしながら観音の妙智力によれりと、人々名義を唱へて感歎せり、明る酉年正月七日の夜より、同き十六日に至り龍燈数度現したりければ、人々通夜して祈願しけるに、各其験ありしとぞ。今の本堂は近年の再興なり。此堂前より荒川の左右を望むに、青山眼に遮り帆舟木の間をすぐるさま頗る佳景の地なり。
仁王門。本堂の前坂の中腹にあり、九尺に二間、左右に力士の木像を安す、この門の内外に石階あり、通じて三十二級。
鐘楼。本堂に向ひ左の山上にあり、鐘楼二尺三寸許、高さ四尺許、銘によるにもとの鐘は寛文十二年二月十八日なれり、安永五年十二月焼失、寛政五年四月改め鋳、同き七年十一月供養せしよしをのせ、福田山東明禅寺兼住、祥光山金泉禅寺従五世見庭宗栢叟謹題と刻したり、銘の全文は事長ければ略す。
観音堂。本堂に向ひ右にあり、四間四面。
八幡社。本堂と観音堂との間なる山のすそにあり、前に鳥居を建。
赤池。山の下にあり、今は形計り残れり、名義詳ならず。
別当東明寺
臨済宗、鎌倉建長寺の末、福田山と号す、今は本堂の右の方山の中腹に、庵などの如く続の室を結び、定れる主僧もなく、金泉寺より建住す、相傳ふ此寺昔普明春屋禅師の創建なり、禅師の石碑あり、(此碑は後人の造立と見ゆ、遷化の日嘉慶二年八月二日と刻す、寺伝には八月十二日と云、)禅師の傳を閲るに、諱は妙葩芥室と号し、又不経軽子と称す、甲斐国の人、姓は平氏、母は源氏の女、観音に祷り師を生めり、人となりて後正覚禅師に従ひ、高徳の聞えあり、康永壬午師三十二歳の時、正覚禅師真如の幹事を辞す。武蔵守高師直かの寺の後住たるべきの旨を命じたれど、師固辞して止ぬ。康暦二年大丞相の命獣止しがたきにより、一寺を創立し覚雄山大福田寶幢寺と号すと、当寺を開し事は其傳に載す、縁起には春屋禅師開闢の後、続に三世にして中絶すといへど、すべて詳なる事を傳へず。元亀二年の鰐口の銘に、存貞和尚住せしよし見ゆれば、此頃は住職も連綿せしにや、又北條家の分限帳に、後藤備前守が所領四十一貫六百五十文、河越三十三郷の内東明寺楽浄寺分と見へたり、この東明寺は当寺のことなるべし、是によれば寺領も古くよりありし事と見ゆ、按に存貞住職の頃、元亀二年の鰐口あれば、春屋禅師よりわずかに三世にして絶しと云は、おぼつかなし、たとへ存貞第三世ならんといはば、世数甚少きに似たり、元亀二年は嘉慶二年をくだること百八十三年に及べり、此間続に三世なるべきのいはれなし、縁起の説誤れるならんか。
寶物
鰐口。元亀二年河村弥二郎が寄進せしものなり。いつの頃にや紛失して知る人なかりしに、元禄中当寺再興の時赤池の中より出しと云。(新編武蔵風土記稿より)


東明寺所蔵の文化財

  • 筆塚

筆塚

筆塚とは江戸時代に寺子あるいは塾を開業した師匠(先生)の墓を、弟子または塾生が供養のため建立した碑で、筆子中・筆徒中・筆塚等の文字が刻まれているものは、これに類するものである。
この碑は当寺の住職武笠台岡師(1810-1878)のもので、その弟子たちが報恩感謝の念をもって建立したものである。
碑には師匠が次のようなことを述べている。
病に伏して久しく、まもなく命も終わるであろう。
自分の石塔を建てなければと考えていたとき、筆徒二百余名が浄財をあつめて、この碑を建てて私をよろこばしてくれたと。
そして自ら碑文を撰び、寿塔として、生前に建立されたものである。
師は上白子村、下白子村を中心とした有志の少年たちを集め、寺を解放して、読み・書き・算数を無報酬で教えたものである。(和光市教育委員会・和光市文化財保護委員会掲示よより)


東明寺の周辺図


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