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上之村神社。熊谷市上之の神社、旧郷社

上之村神社の概要

上之村神社は、熊谷市上之にある神社です。上之村神社の創建年代は不詳ながら、応永年間(1394-1428)に成田家時が社殿を再建、当地を本貫としていた成田氏の厚い崇敬を受けていたといい、上之村・箱田村・池上村三村の鎮守社だったといいます。慶長9年(1604)徳川家康から社領30石の御朱印状を拝領、明治6年には郷社に列格、明治42年、字川通の無格社御嶽神社・伊奈利神社・浅間神社、字上宿の無格社諏訪神社、字荒神の無格社天神社・荒神社、字陳鍬の無格社天神社、字藤ノ宮の無格社諏訪神社、字中宿の無格社住吉神社、字三郎の無格社夷神社の計10社を合祀したといいます。

上之村神社
上之村神社の概要
社号 上之村神社
祭神 事代主命
相殿 大己貴命、大山祇命
境内社 諏訪神社、
祭日 -
住所 熊谷市上之16
備考 -



上之村神社の由緒

上之村神社の創建年代は不詳ながら、応永年間(1394-1428)に成田家時が社殿を再建、当地を本貫としていた成田氏の厚い崇敬を受けていたといい、上之村・箱田村・池上村三村の鎮守社だったといいます。慶長9年(1604)徳川家康から社領30石の御朱印状を拝領、明治6年には郷社に列格、明治42年、字川通の無格社御嶽神社・伊奈利神社・浅間神社、字上宿の無格社諏訪神社、字荒神の無格社天神社・荒神社、字陳鍬の無格社天神社、字藤ノ宮の無格社諏訪神社、字中宿の無格社住吉神社、字三郎の無格社夷神社の計10社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による上之村神社の由緒

(上村)久伊豆社
慶長九年社領三十石の御朱印を賜ふ。祭神は大山祇命にて、伊豆国三嶋社を写し祀るといへど疑ふべし。此久伊豆社と云は騎西町領に大社ありて、近郷在々是を勧請すれば、当社も恐くは彼を写せしならん。当村及箱田・池上三村の鎮守なり。
末社。
雷電。但馬国木田郡雷電社を勧請すと云傳ふ。此社の後に御手洗の小池あり。
姫宮、天神、太郎坊、次郎坊、稲荷。
随身門。
鐘楼。延宝4年鋳造の鐘を掛。
別当久見寺。伊豆国浄慶院と号す。新義真言宗、村内一乗院末。客殿に久伊豆の本地十一面観音、及雷電の本地馬頭観音を蔵す。是昔本社に掛たりしを、後年賊に牛を奪れしといへり。其図鰐口は、銘文に拠ば元当社のものにはあらで、他所より持来りしものなり。其由来は傳へず。
社人。江守大和、京都吉田家の配下なり。
社僧大正院。本山派修験、葛飾郡幸手不動院配下、古林山と号す。中興開山三乗院、天正17年3月7日寂す。不動を本尊とす。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による上之村神社の由緒

上之村神社<熊谷市上之一六(上之字小宮)>
当社は、中世成田氏の本貫であった旧成田郷(大字上之)に鎮座している。社名は、明治二年に現在の上之村神社に改められるまで、「久伊豆社」あるいは「久伊豆明神社」と号していた。
久伊豆という社名の神社を『風土記稿』から拾うと、元荒川流域に北は成田郷から南は八条郷(八潮市八条)まで南北に約八〇社が分布する。これらの神社を奉斎した氏族は、明らかではないが、神社の分布と、そこに蟠踞した武蔵七党の一つである野与の分布とが合うことから、久伊豆社に野与党が古く関与していたとする説がある。また、久伊豆神社の中心となる本社というべき神社については確定できないが、中世からは成田郷・箱田・池上などの惣鎮守である当社をはじめ騎西領の惣鎮守の久伊豆社(現玉敷神社)、岩槻城及び城下町の惣鎮守の久伊豆社などが領主に崇敬される有力神社であった。
中世、当社が有力神社になり得たのは、成田郷を本貫とする古くからの豪族、成田氏の庇護を受けたからにはかならない。同氏は、『成田系図』に載る同族の別府・奈良・玉井氏などと共に「武州四家」と呼ばれた関東の名族で、特に戦国期からの勢力の拡大はめざましく、文明年間(一四六九-八七)には、成田親泰が忍城を攻略して本拠を成田郷から忍へ移し、発展の基礎を固めた。更に、その跡を継いだ長泰は、後北条氏と上杉氏の争いを巧みに利用しながら、忍領に本庄領・騎西領などを併合して成田氏所額を形成し、天正二年(一五七四)には羽生領までその支配下に置いた。
当社に残る摂社、大雷神社の扉の銘文には、「奉修造雷電宮御宝前戸扉大檀那藤原朝臣長泰」「武州崎西郡忍保大官山之内□□□年戊午五月吉日願主」の墨書がある。これに見える「長泰」は、忍城主成田長泰のことで、干支から永禄元年(一五五八)の奉納であることがわかる。この扉は、高さ一メートル、幅四七センチメートルで、表が朱塗りで裏には金箔が張ってある見事なものである。
長春の代には、既に成田氏は本拠を成田郷から忍に移しているにもかかわらず、雷電宮の造営に際し扉を奉納したということは、地縁及び血縁をもって結束している武士団にとって、その本貫に祀られている産土神がいかに重要であったかを物語るものなのであろう。
しかし、天正十八年(一五九〇)、小田原城の後北条氏が豊臣秀吉に攻略された時、これに属した成田氏の忍城も落とされたことから、同氏は旧来からの所領を没収されることになった。これを機に当社も成田氏の庇護から離れ、代わって関東に転封した徳川氏の支配に組み込まれることになった。
慶長九年(一六〇四)十一月、当社は徳川家康により久伊豆明神領として、上之村内三〇石が安堵された。
『風土記稿』によると、別当は、村内の一乗院末の真言宗伊豆山浄慶院久見寺で、客殿には当社の本地である十一面観音像及び摂社の雷電神社の本地である馬頭観音像を安置する。
また、社人は京都の吉田家配下である江森大和が、社僧は葛飾郡幸手不動院配下の本山派修験、古林山大正院が務めた。なお、中興開山の社僧は三乗院と号し、天正十七年(一五八九)三月七日に没している。
(中略)
明治二年、社名を従来の久伊豆杜から村名をとって上之村神社に改称している。祭神は、江戸期、大山祇命であったが、この年、主祭神を事代主命、相殿の神を大己貴命と大山祇命に改めている。
明治四年、上地令により、三〇石の社領は上地され、同六年の郷村社社格選定の際、第一五区一九か村の郷社に列した。
明治四十二年、字川通の無格社御嶽神社・伊奈利神社・浅間神社、字上宿の無格社諏訪神社、字荒神の無格社天神社・荒神社、字陳鍬の無格社天神社、字藤ノ宮の無格社諏訪神社、字中宿の無格社住吉神社、字三郎の無格社夷神社の計一〇社が当社に合祀された。(「埼玉の神社」より)


上之村神社所蔵の文化財

  • 上之村神社本殿・雷電神社本殿付扉一組(埼玉県指定有形文化財)
  • 上之村神社鳥居(熊谷市指定文化財)

上之村神社本殿・雷電神社本殿付扉一組

上之村神社は、古くは久伊豆神社と称し、室町時代、城主成田氏の崇敬が厚く、応永年間(一三九四〜一四二八)に成田家時が社殿を再建したと伝えられています。江戸時代に入り、慶長九年(一六〇四)に徳川家康から三十石の朱印地を与えられ、明治二年(一八六九)には村名をとって上之村神社と改称しています。
本殿の構造は一間社流造で、屋根は銅板葺(もと茅葺)です。軒回りの蟇股・手挟などに十二支の彫刻が彫られていて、木割は雄大です。
雷電神社は上之村神社の摂社で、本殿の構造は蟇股の彫刻など一部を除き、上之村神社とほとんど同じです。木割は上之村神社に比べて繊細で、規模もやや小さなつくりです。
社務所に保存されている旧本殿の扉には、「観音奉修造雷電宮御宝前戸扉大檀那藤原朝臣長泰 武州埼西郡忍保大宮山之内□年戊午五月吉日願主□」という銘文が記されています。戊午の年は永禄元年(一五五八)と推定され、この年に忍城主成田長泰が、雷電神社の内陣の扉を修理し寄進したことが考えられます。
指定名称は歴史的な背景から考えて雷電神社となっていますが、現在は、大雷神社と称されています。
両本殿の建築年代については、上之村神社本殿は、江戸時代初期と推定され、雷電神社本殿は彫刻類の絵の様式から、それよりやや古いと推定されています。
両本殿とも建築当初の姿をよく残し、桃山末期から江戸時代初期の建築様式を伝える貴重な建造物です。(埼玉県・熊谷市教育委員会掲示より)

上之村神社鳥居

この鳥居は、上之村神社正面にあって、木造の両部鳥居形式のものです。
平成七年の解体修理の際に、柱のほぞから、願主と大工の名前とともに、寛文四年(一六六四年)六月十二日の建造を示す墨書が発見されています。
建造以来すでに三三〇年以上も経っている当鳥居は、笠木や控柱の上に板屋根を設けるなど耐久性にも充分考慮された、市内最古の木造鳥居として重要です。(熊谷市教育委員会掲示より)

上之村神社の周辺図




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